つぶやき 1998

短大って何?(98/2/13)

大学・短大への進学率は40%。希望者全入の時代(短大冬の時代)が近づいている。
大学の教育内容も変化しようとしている。専門の最先端にまで進ませるのは大学院での教育にゆだねられる。大学4年間では「自分の頭で考える力を身につけることを目標にして,精選した基礎的な科目に絞るべきで」あり,「講義をもっと減らして,少人数ゼミで議論する訓練をすべきだろう」と池上了(名古屋大学・宇宙物理)は言う(『日本の科学者』3月号)。
私は短大で教えているが,今にいたるも何をどう教えていいのかわからない。池上論文を読むと,4年制大学は「考える力」の習得を目標にする流れもあるらしい。では短大2年間ではどこらあたりを目標にしたらよいのだろう? 職業技術の習得なら専門学校のほうが効率的みたいなので,いちおう大学のふりをしている短大はもっと教養っぽい基礎的力量の向上を目標にせざるをえない。しかし,もはや4年制大学のカリキュラムを単純に2で割ってすませることはできず,2年間で「完全教育」を提供しなければならないのだから,ますますつらい時代になってきた。

幼稚なぼく(98/2/14)

『アエラ』(2.16号)の特集「団塊世代は幼稚化のトップランナー」を読んで悟得した。上に向かって逆らい,下に向かって《すりよる》態度は私と同世代の人々に共通した姿だったのね。自分では《反権威》を気取っていても,じつは年相応に成長しきれず幼稚なままでいることの現れであった。わかってやっていたと開き直ってもいいのだが,やっぱりわかっちゃいなかったような気がする。

短大はどこへ行く(98/2/23)

という本を読んだ(松井真知子著,勁草書房,97年12月刊)。よい本である。
せいぜいのところ使い捨ての労働力(就職後3〜4年ほど効力が持続すればよい資格や能力)の養成しか期待されていない短大であるが,これからの女性が変化の激しい時代を生き延びるためには「的確な情報収集力,批判力,分析力,判断力,自己主張力に裏打ちされた教養」が不可欠のはずだという。
それはそのとおりで,私のいる商経学科はまさしく「生きる力」を育てようとしているのだけれども,鹿児島という環境は女子短大生にそうした「自己決定能力」の育ち上がりを期待していないような気がする。つまり,私たち教員が「学生にとって本当に必要な力」だと思っているものと,設置者(=鹿児島県)が短大教育に期待しているものとのあいだには大きなギャップがありそうな気がする。

弱い者の強み(98/2/28)

『OLたちの〈レジスタンス〉』(小笠原佑子著,中公新書,98年1月)という本もなかなか味わい深い。女性は単純反復労働をおしつけられ,出世の望みももてない(=構造的劣位)が,そのことで逆に優位にたてるという奇妙な現象と,そうした「弱者の強み」の発揮がじつは伝統的なジェンダー関係を再生産しているという皮肉な現象。
昨日,鹿児島県内企業との就職懇談会で,企業側が短大生に求める資質として挙げたのは「明るさ,すなおさ,気配り,やる気」であった。これは職場内で女性社員をコントロールできないでいる男たちの悲痛な願望でもあったのね。

地方の公共圏(98/3/1)

『ボランタリー経済の誕生』(金子郁容・松岡正剛など著,実業之日本社,98年1月)は地方の生活圏・文化圏・経済圏が自発的に形成されるありさまに新しい時代の可能性を説く。
私の目に,この説は19世紀フランスの思想家プルードンが「相互主義」の経済システムと呼んだ非共産主義的な社会主義と重なって見え,自分で勝手に面白がって読んだ。この本で言う「地方の公共圏(コモンズ)」の自生性を鹿児島に期待するのは空しいような気もするが,鹿児島の活性化のためにはまさにこの点が頑張りどころだろうとも思われる。
しかし,県立4年制大学をつくろうともしない鹿児島県である。やはり無理かな。(すべての面白い企てや試みは他県=福岡・沖縄・熊本・大分・長崎・宮崎でおこなわれているだけに,ますます悲しい)

誰かが読んでる(98/6/5)

なんだか知らんが,このごろカウンターの数字が増えだした。て〜ことは,誰かが読んでるってことだな。いかん,いかん。まじめに更新せねば。
と思いながらも,今なにかを書けば愚痴にしかならん,という身辺状況。愚痴なんか書いてもな〜。

まわりは皆バカばかり?(98/6/15)

鹿児島に来るまでは,討論の場で発言したいことはすべて誰かが先に発言し,しかもはるかに上等にアピールしたりしてたので,ほとんど出る幕なんてなかった。黙って周りの議論を楽しんでいればよかった。ぼくが発するのはせいぜい「休憩!」とか「異議なし」程度。
ところがこのごろは平気で長々と発言したりする。しかも,自分一人が賢いことをしゃべっているような気になっている。それでいて賛同がなかなか得られないものだから「まわりは皆バカばかり」だと思い,説得力を鍛える努力もしない。
たしかに(自分を含め)教員ってのはバカを自覚しない人々だし,チーム意識ももたないから,集団討議はしばしばわけもわからず紛糾する。アナーキーの極みだとも言える。だからこそ,そんななかで自らの説得力を鍛えていくことは大いに意味のあることなのだが,じっさいには気をなえさせて,自分自身もほんもののバカになりはて,無内容の長広舌をふるって自己満足。

なかなか更新できない理由(98/7/5)

お見せできないのが残念だけど,学科内のイントラネットの画面づくりにいそしんでいる。
ほんとうはCGIとかの勉強をしたりしなきゃならないみたいなんだが,ちょっと手を出したら,あまりの面倒くささにその道は放棄。
で,今はけっこうお手軽なファイルメーカーProとホームページProを利用している。これもそれなりに奥行きがあるけど,できあいのテンプレートをいじくれば,そこそこサマになる画面が作成可能。そうしたいじくりで時間を費やしている。
さて,そうしてできあがった「電子掲示板」や「会議室」や「日程表」を職場の人々が喜んで使っているかというと,これがさっぱりなんだな。作った人間だけが楽しんでいるという構図。

おフランスに行きたい(98/7/13)

10月中旬の2週間,フランスで学会があり,ぜひ行きたいと思っている。学会の初日は12日。しかし2週間は留守にできない雰囲気もある――というふうに,職場のことを慮る最近の私であった。

アクセス数がもうすぐ1000(98/8/5)

いつのまにかアクセス数が増えた。学内LANがようやく定着しつつあり,それが斉藤ホームページへのアクセス数増加につながっているもよう。いろいろ読み物も増やさなきゃとも思うが,学内で物議をかもしそうなことはなるべく書かない方がよいとも思われ,むずかしいところだ。

地域を活かす大学(98/8/8)

[次の文は、鹿児島県立短大の同窓会誌『振興会報』に寄稿したものです。]
 私はいま商経学科長という役についておりますので、以下ではやや勝手に商経学科を主語にして思うところを書きつづってまいりますが、文責はもちろん私個人に帰するものです。
 さて、商経学科は社会科学系の教員を中軸に構成されています。公立の高等教育機関として他学(鹿児島大学法文学部、鹿児島経済大学)よりも一段と地域性を重視した教育・研究を行い、地域になくてはならない存在として自己アピールをしたいと考えております。地域おこしへの参加や、地元企業などでのインターンシップ(実地研修)を学科教育の枠に組み込んでいるのも、商経学科の先進性のあらわれとして誇りに思っているところです。社会人講師を多用しているのも商経学科の特徴ですが、毎学期末におこなう「学生による授業評価」でもこうした試みが高評を得ているのは私たちの狙いが当たっていることを裏付けています。(ちなみに、この「授業評価」はインターネット上の
商経学科ホームページにて毎回公表しております。)
 商経学科の新しい課題は、こうした教育の充実に加えて研究面でも「政策提言型、あるいは情報発信型の学科」へと自己発展していくことです。これには先進例があります。今年の3月、都留文科大学社会学科が『地域を考える大学』(日本評論社)という本を出しました。都留文科大学は人口3万3千人の都留市がかかえる市立大学(学生数2700名)で、社会学科は専任教員12名という小さな学科。その小ささが良好なチームワークによる共同研究を可能にさせました。96年度に企画をたて、97年度に入ってグループ研究をおこない、夏休みに執筆して、98年3月に刊行。このスピーディーで効率的な展開と、章だてに見られる体系性は私たちにとっても大いに参考になります。企画で先を越された「くやしさ」のようなものを覚えないでもないのですが、私たちはさらに内容豊かな情報の発信にむけて工夫をこらしていきたいと思います。地域の活性化に貢献するシンクタンクとしても認知されるよう努力してまいります。

おフランス行きは中止(98/9/30)

10月12日からのフランスでの学会(日仏社会学会)には行かないことにしました。ちょっと悩んだんですが。
学科長というしごとを重視したため、なんてね。

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