社会思想レポート(97.6.24)抜粋

 テーマ:個性的になりたい?

第二部(夜間)の授業で,J・S・ミルについてお話をしました。
人間の自由と自主性を最大限に許容する体制=理想の資本主義をめざそうというお話です。以下,幾人かの学生の感想文を一部抜粋して紹介します。

 


“今日は泣かせます”という力強い言葉で話が始まったので,どういうことなのだろうと思いながら聞いていました。しかし,J・S・ミルの考えは少し正義感に満ちあふれているような気がしました。
たしかに,現代社会は群衆で動いている面があるかと思います。よく企業が新入社員を募集するセリフに「個性的な人材を募集しています」というのがあります。J・S・ミルに言わせると,そのような個性は本当の個性ではないのかもしれません。ほんの少しの個性にすぎず,ほかは世間の人々と一緒だったりするからです。今の社会では,自分の意見を言うだけでもものすごく勇気が必要になっていると私は感じます。
小中学校から画一化が教育の目標の一つにあり,たとえば体育の授業で「前にならえ」をさせられる。まるで軍隊を思わせる。きちんと一緒にきびきびと動くことを命じられて機械的にやっていた。動作が遅れれば蹴りがとんできて体で覚えさせられた。
今は何をするのも世間の目が気になるからイヤだ。私は公務員だけど,いろいろ自由に思っていることを言いたいのだが,市民の目がどうのこうのとか,髪を伸ばしたり色をつけたりすると上司のオッサン連中にとやかく言われる。これじゃ個性もくそもないし,そのとおりにする自分がくやしい。
公務員だって自由なファッション,ヘアスタイルにしたい。自分のかっこうを他人にとやかく言われたくないです。
絶対的な真実が本当に欲しいと今でもときどき思います。そんなものはないんだからと言われても,私は欲しいです。
今まで覚えてきた全てがまちがいだったらおもしろいって話で,そうゆうことは気づいていないだけで,あるのかもしれません。想像力ってゆうのはとても大切だと思います。
自由だって,よく使う言葉なのに,そのわりには意味がわかってないです。なんだかこの言葉は今の世の中にはついてこれてないような気がします。そんな時代じゃないような,もう今ではそれを意識する必要性がなくなってしまっているような,そんな感じがするのです。これが画一化につながっているのかなぁ。同じ教育で統一すると,ろくなことにはなりません。
いろいろ考えても答がなかったりすると,考えるだけムダだと思ったりもしたけど,考えることは成長するためにけっこう意味があるのかもしれず,やっぱり考えようと思うのでした。
今日の授業はいつにもまして真剣に聞いたような気がする。
というのは,今日の一番のテーマであった“自由”についてすごく考えてしまったからだ。
じつは,私は今日,4年間つきあっていた彼と別れてきたばかりだ。こんなことを書くのは変かもしれないけど,今日の授業にでてきた“ドグマ”という言葉とすごくよく結びついていると思い,あえて書きたい。
私は今日まで本当に思いこみが激しかったのかもしれない。“彼氏がいるから絶対に他の人を好きになってはいけない”とか,“他の男友達と遊びに行ってはいけない”とか。じっさい私はこの4年間,男友達と遊んだことは一度もない。今まで私はそれはとても良いこと,当たり前のことと思ってきたが,今はそれが本当に良いことだったのか,よくわからなくなった。というより,良いことでもなんでもないように思えてきた。考えてみれば,私はドグマのかたまりだったかもしれない。そんな自分をすごく追求してみたくなった。
多数派に同調する考え方というのは,正直言ってぼくも持っているので,その考え方が危険だと指摘されると,自分の思っていることのどれが多数派に同調していて,どれが本来の自分の考え方なのか区別がつかなくて,本当の自分の考え方がなくなってしまうのではないかと思えてきます。
多数派に埋もれるということは,別の角度から見ると共産主義に似た社会体制になっているということなので,個性というものを伸ばして多様性のある意見を持たなければならないと思います。
流れに身をまかせていれば,もしなにかあったとしても人のせいにできる。簡単に言ったら“逃げ”ですね。もし,ずっと逃げてばかりいたら,その人はどんな人生を歩んでいくのだろう。私は,後悔したくないから,逃げたくないから,私なりの人生を歩んでゆきたい。
個性があった方が世の中は楽しいと思う。皆が皆同じような考えや服装をしていたら刺激がないし,おもしろくない。
しかし,常識とか当たり前とされていることは生まれたときからあり,習慣としてそうなってしまったものだから変えようがないと思う。そういう環境で育ってきた私たちにとって個性を持つことは難しい。個性を持つことはいいことだと思う。思うけど,個性的な生き方をしていくことはこの社会では難しい。
個性をだすには人と違う考えをもたないといけない。たしかに集団の中で自分だけ違ったことをしていると批判を浴びないかと不安になる。しかし,その中で自分を持たないと,いつまでも人と同じになり,自分を表現できない。
集団の中にいるのはとても楽である。集団には集団の良さもあろう。しかし,自分は自分でいたいと思う。だから,できるだけ自分を表現できるようになりたい。
私はミーハーだと言われるし,自分でもミーハーだと思う。ベストセラーの本を読み,流行している音楽を聞き,野球は巨人,サッカーはヴェルディ,という具合。
自分の基準で選んだわけでなく,世間で流行っているので自分も……という多数派だったのかもしれない。私の友達の中にもこういう人が何人かいるので,これが集まって今の世の中を作っていき,自分の意見,考えがなくなって,画一化されているのかと思うと恐ろしくなってきた。
今なかなか自分の意見を述べる機会がなくなってきているような気がする。また,あえて他の人と対立するより波風が立たないようにしている自分にも腹が立つ。
よく友達に「あんたは何でも人の言うことにケチをつける」と言われる。自分の意見と違うと,知らないうちに文句を言っているらしい。今日の講義を受けて,「いけないクセだなー」とあらためて反省した。いろいろな意見を受け入れられる頭をもたないといけないと思った。
高校生のころは束縛からの脱出を願い,規則に不満を覚え,もっと自由になりたいと思った。しかし,いざ自分で自分の生き方を決めなければならなくなったとき,それはめんどうで辛いことに思えます。
小学校のときに「人と変わった行動をとるな」と言われたことがあります。団体生活の中では,足並みをそろえて全て一緒でなければいけないと思うのが普通です。その初めの時点から人は自由を遠ざけた行動をとっている。ですから成長した後も,私は人と同じようにしていないといけないとか,別のことをすると変に思われるんじゃないかと想像して,こわくて行動できません。
今の世の中で,個性や自由というものを求めれば,それだけでうっとうしい存在としてまわりから見られるような気がします。これから先,自分がそれらを求めていけるのかどうか,それはわかりませんが,心のどっかでそういう気持ちを持っていれたらいいなと思います。
友人に,いやに服装にうるさい人がいる。彼は数年間東京に住んでいた。流行の発信源の東京にだ。
私が思うに,いくら東京に住んだことがあり,流行や服装にうるさいと言っても,しょせんは芸能人の猿真似にすぎない。もし芸能人が下駄をはいてランニングのシャツで街を歩いていたら,みんなするだろう。つまり,服装や流行にうるさいという人は,その人自身の個性がない,中身のない人間だと私は思う。