現代社会論レポート(97.6.30)抜粋

 テーマ:快楽主義

浪費が制度化されている現代社会について,ダニエル・ベルの『資本主義の文化的矛盾』を素材に話をし,受講生(昼間部1年生)に感想を書いてもらった。以下にその一部を紹介する。

 

いまは学生だから親に食べさせてもらっているし,お金が足りなくなったら親に補充してもらっている。一応アルバイトをしてはいるけど,そんなものは一日で使いきってしまうくらいの金額だ。
月に5〜6万も使ってしまうけど,欲しいものは欲しいし,ガマンしたらよけいにストレスになってしまったりするから,ガマンなんかしない。
でも,こういう生活は“親”がいるからできるのだと,一応頭の中にはある。自分が社会人になって,お金に困ったらと一応心配してみるけど,そうなるのはまだ2,3年先のことだから,そのとき考えようと思っている。
一応将来の希望はお金持ちの人と結婚したいと思っているけど,そうなると今からお稽古ごとやったりなんかして,自分の株を上げなくてはいけない。でも,それは面倒だからやりたくないし……。やっぱり自分と同レベルくらいの人で,好きだったらそれでいいのかなとも思う。
もともとリッチでない私みたいな中流の人間がワンランク上をめざしてがんばるのは痛ましいことだろうか。でもやっぱり“たまのこし”は魅力的だな。


周囲をあらためて観察してみると,みんな幸せそうである。現在いろいろな問題があるにもかかわらず,けっこう幸せに暮らしている。いろんな問題があっても深く考えず,表面的なことだけ取り上げ,それを話題にして楽しむ。誰もそれを難しい方向に持っていこうとしない。
学者たちはそれぞれ専門の分野を追求し,自分なりにそれを本に書いたりし,難しい方向にもっていくが,人々はそんなことを求めてはいない。学者も自分がしたいことをしているだけで,べつに私たちに読んでほしいと思っていない,と思う。それぞれ自分なりに娯楽を求めているだけである。
最近浪費癖がついてしまって困っている。一人暮らしゆえに使える金には限度があるのだが,つい先日アルバイトを始めてしまい,それで気が緩んでしまったらしい。親元にいる頃は当然おこづかいなど少ないものだし,何より田舎で,ここみたいに物があふれているところではなかったものだから,お金がなくてもそれなりに幸せだったんだが,鹿児島市内に来てからというもの私は金に困ってしまっている。別に困ってもいないんだけど。
私は自他ともに認めるナマケモノで,学校サボるなぞへっちゃらである。勉強は大キライである。高校のときも中学のときも,ヤンキーとはまた違う問題児であった。そんな私がいま燃えていること。アルバイトである。家が自営業だったので,高校まではやらせてもらえなかった。上に書いたように,欲しいものが増えて,生活もちょっと苦しかったので(仕送りは家賃を除いて4〜5万)始めたのだが,これがまたいいもんである。
けっして楽じゃない。緊張するし失敗もする。しかし,時間きっちり働けば今日もまたこれで○千円……。自然と顔が緩んでしまう。自分が働いた分だけ金が入るってのはいいもんだなぁとしみじみ思う。かくして私は資本主義の考え方にどっぷり浸りこんでしまったわけである。
人間ほんと目標ができれば多少のことには目をつぶれるもんで,バイトはけっこう苦痛なんだけど,それでも我慢ができる。目の前に金が積まれているからだ。学校は別に目標ないし,来れば楽しいけど別にメリットはない。就職もまだ先だ。私みたいな人間はやっぱり進学すべきじゃなかったなぁと思う。親が泣くから言わないけど。
金の亡者と化した私はこれからどうなっていくのだろう。欲しいものは増えるばかりである。かしこい消費者って,この世の中ほんとにいるんだろうか。
いつも何を買うにしても金額を気にしたり,いろいろな面で迷ったりするから,迷わずに何でも思う存分買えたらすごく快感だろうなーって思う。遊びに行くときにしても,いっつも時計を見ずにはいられないし……。時間も気にせずに飽きるまで遊んでいられたらどんなに楽しいだろう。何でもありだったらいいのに。
兵庫の小学生が殺された事件。容疑者が14才の中学生だったというので大変な驚きを受けました。現在ではさまざまな残酷事件の本などいろんな情報があふれすぎている結果のできごとのようにも思えます。マスコミなどを含めて情報の流しすぎのようにも思いました。
もうひとつ悲しいのは,そのような事件があってほしくないと思っていても,心のどこかで大事件を待ち望んでいる私たちの意識です。どんなことでも茶飲み話にしてしまう私たち自身にやりきれなさを感じました。
神戸の中学生だけでなく,ほとんどの人が偏差値だけで人を判断するような今の社会に疑問や不満を持っていると思います。では,どうして彼だけは殺人をしてしまって,私たちは殺人をしないのでしょうか。とても不思議です。
罪を憎んで人を憎まずという言葉はあるが,ちんけな私にはそういうことはできない。神戸の事件の中学生も,そうなった背景をしらべるべきだとテレビでも言っていたが,まぁ,そういうことも少しは気になるけれどもやはり「人」の方に注目してしまう。私に限らず,ほとんどの人もそうだと思う。これも資本主義社会に生きている人間のさがだと思って受けとめるしかないのだろうか。
たしかにふつうは罪より人を憎んでいると思います。だけど,それがふつうなので批判はしないけど,私は人を憎んでも期間限定で憎もうと思います。
いま他の授業でも資本主義社会,とくに経済のことについて学んでいるけど,なんか資本主義ってとてつもなく悪いしくみ……。なんて思ったりして。今日の授業でもその思いが一層強くなってしまったりして。
私は欲しい物があっても,できるだけ買わないで我慢して,そのあと後悔したりすることが多かったけど,今日の授業を聞いてると,そう考えてた自分がバカらしく思えた。せっかく自分で一生懸命働いて得たお金なんだから,使うときも思い切って一生懸命使えばいいんだと思った。なんか今日,お金を使うことに対する自分の線を越えた気がした。
テレクラとか体を売ってお金を稼ぐという売春がもう日常化しつつある。そうなったら何が行動の基準なのか分からなくなって,自分も平気で妻子持ちのオヤジに体を売るかもしれない。そうなりたくないけど,いま自分はすごく気持ち良くないし,毎日を楽しく過ごしているわけでもないので,そういう快楽に気持ちが向かうかもしれない。
資本主義の根底は“ケ”からきていて,資本主義が発展すると“ハレ”の比率が多くなったと思われる。私もやはり毎日の生活が楽しい方がいい。どんなに残忍な事件でも,あまり関係のない人たちはそれを話題にして楽しんでいる。
小学生殺人事件。私には刺激が強すぎた(楽しいとまではいかなかった……と思うが……)。でも,日常生活で毎日同じような生活を送っている私たちに,そういう刺激はあった方がおもしろいと私も思う。だから,デマばっかりのワイドショーでも見たくなるのだ。
自分にふりかかる事件でも,他の人が楽しんでくれて喜んでくれたら,よかったと思えるかもしれない(?!)。でも,自分も楽しみたいから,やはり遠いところでの事件を望みたい。(そういえばオウム真理教の話題はどこへ行ってしまったのだろう。もう私たちに楽しい話題を提供してくれないのだろうか?)
私もいつも楽しいお祭り状態がいいと思う。私はあやつられているから物を買うのをやめようとか,自分の欲求を抑えつけることはあまりしない。それはきついからだ。だんだん疲れてくるからだ。そんなこといちいち考えて,いやだなぁー,ほしいなぁーっていうどんよりとした気持ちをできるだけ少なくしたい。私は自分の感性のままに,できるだけお祭り状態を保つため,少しだけ我慢して楽しい生活を送りたい。
日本の教育は,まじめに勉強することやまじめに働くことが大事だと教えている。それで,自分のしたいことをすべてがまんして,子どもは朝から夜遅くまで勉強し,大人は仕事に励んでいる。でも,生産と消費の関係で見てみると,生産者は消費者にたくさん物を買うことを勧めている。
たしかに欲しい物が手にはいると快楽を味わうことができる。しかし,楽しいことばかり追い求めていると,本当の楽しさが何か分からなくなってしまうと思う。ある程度自由のきかないところがあって,それ以外のところで楽しみを見つける方が快楽を味わえると思う。
私たちは資本主義のしくみのなかで操られ,踊らされているだけではないのか。テレビなどの情報も操作されているのであれば,いったい民衆は何を信じて行動していけばいいのか。これは深く考えていく必要があると思った。
民衆も,ただ操られているだけではなく,世の中のことに深い関心を持ち,望ましくないと思うことには反対の意見を述べていくことができるようにするのが大切ではないだろうか。その方法については具体的にはよくわからないのであるが,民衆が声をあげるべきだという気持ちは強く持った。
黒板に今日のタイトル=快楽主義と書いてあったので,あっち方向の話なのかなとひそかに期待していたら,資本主義が……という話で,ちょっと残念だった。しかし,資本主義の根本と資本主義がもたらす影響などを学べて,経済学を少しかじったという気になった。
私たちは為政者の思惑どおりに,パンを食べサーカス(殺人事件報道など)を楽しみ,何も考えずに生きていく愚かな民衆になっているのだ。楽しくないといけないという強迫観念も生まれ,楽しいこと,気持ちいいことだけしたいと思うようになる。これは資本主義のメカニズムによって生じるものなのだ。
嫌な仕事で稼いだお金で自分の快楽を得るのが今の社会だと思います。援助交際している女子中高生も,おじさんたちも一緒です。女子中高生は自分の体を犠牲にしてお金を得て,そのお金で快楽を得る。おじさんたちは性的な快楽を得るために,自ら働いたお金を犠牲にする。これで両者の快楽がお互いに得られるのなら,それでよいのではないか,と私は思います。