視点を変えて

「現代社会論」(99.4.13)――
例年、最初の講義では「相対的なものの見方や考え方」について話しているが、今年はいつも以上に話の展開がまずく、文字どおり学生の頭を混乱させた。学生のレポートも概して出来が悪く、おもしろくない。したがって、紹介に値するのは、そのごく一部である。

 


アメリカがユーゴを爆撃しているのなんかは、ほんとうに腹が立つ。他の国のもめごとに、どうしてアメリカは首をつっこむんだ! アメリカはユーゴやイラクを悪者のように言うが、その常識は私には通用しない!っと大きな声で言ってやりたい。
バス通学はお金も時間もかかるし、運動不足だったから少しがんばってヤセようと思い、10月から4ヶ月間チャリ通にした。初めのころは、まず1ヶ月続けたら効果があるだろうと思ってたけれど、2ヶ月過ぎたころには太股に筋肉がついてモリモリになった。細くなるのはきっとこれからだと信じて、もっと続けたら、ちょっと足に力を入れるだけでピクピク筋肉が動くまでに成長した。しかも、すっかり貧乏性になってしまって、家から市民文化ホールまでチャリでコンサートに行けてしまうようになった。
 そして、すっかりチャリに乗ることもなくなった今、筋肉は脂肪になってしまってプヨプヨしている。
 早く気づいてやめればよかったな。
就職先が早く決まるのは良いことか?
 ある商経の先生の話によれば、就職を早く決めた方がいいと押しつけがましく言っているのは[学校が]一定の基準を保とうとしているからだそうだ。だから、早く決まった人が必ずしも自分が満足している会社に行っているわけではない。去年卒業したある人は、「私が一番幸せだった時期は、6月に内定をもらって、みんなに“早いね!いいなぁ”と、うらやましがられた時だけだった」と、就職してスグにもらしてたそうです。だから、その先生が言うには、早く決めようとあせっていたら、本当に自分がやりたいことがわからなくなってくる。あなたなんかは家を飛び出してもいるんだから、基準の波にもまれずに全然ちがう所へ飛びこんでみたらどうだ?と言われました。
学校では集団行動が何よりも大事。乱す者はハズされてします。個人・個人が目立つことが悪いとされる。
 私は決して人の流れに乗りたくない。私みたいな生徒は先生からあまり好まれない。言うことを聞かない生徒として見られるかもしれないが、私は何もかも先生の言うことを聞くのではなく、自分が体験して実感するまでは、納得するまでは、すべてを信じたくない。悪いこと、後でコウカイすることと分かっていても、私が納得するまで……。
 県短の商経学科の先生は、そういう所を理解してくれているような気がします。とってもいい環境の中で私は勉強していると思います。
いよいよ私も2年になって就職も他人事ではなくなってきている。しかし私は就職したくない。親・祖母・兄妹・世間はそれを許さない。うちは母子家庭で、母が大変だから、私が職に就いて彼女に楽をさせたい気持ちもある。そうやって親孝行をするのは良いことだ。子として当然の行いでもある。しかし、親孝行をするために自分について妥協した生き方を選ぶというのもおかしいと思う。
 私は一個の人間として生きるか、一人の親をもつ子供として生きるか、について悩んでいる。というか、それについて悩むことに疑問を抱いてさえいる。両方とも当然といえば当然だが、私にとってはどうしても二者択一になってしまう。私にとって就職しないことは良いし、また悪いとも言える。「私」を軸に考えれば後者で、「親・世間」を軸にすると前者になる。
 私は自分の夢をかなえるためなら、一週間をキャベツ一個ででも耐えてみせる。畳の4畳半でだって暮らしていくのに、親はどうして私を就職させたがるのだろう。私の人生より私の暮らしを案じている。親ってそうゆうものなんだろうと思うし、その気持ちも分からなくはないけど、嫌な気分になってしまう。
 私はわがままかもしれないけど悪くない。世の中のフリーターみんながみんな、ただブラブラしてるわけじゃないのに、と思う。中には夢のために頑張ってる人だっているのに。
 大人になりたくない。夢をわかってくれない大人になんかなってもダメだし、悲しいと思う。大人になりたくないっていうのも悪いことらしいけど、それも良いの裏返しで、きっとみんな大人にならない人をうらやましがってるんだと思う。30年前に生まれたかった。
角のある容器に球を完全に入れ込むことは難しいから、せめてこの時間だけは器をうまく満たすような液体になろう。
私は将来結婚しないつもりである。しかし、子供は産みたいので妊娠発覚の際にはその事実を相手に伏せたまま逃亡しようと計画している。
 現代社会では結婚せずにいるだけでも冷たい目を向けられるが、まして未婚の母ともなればそれは疎外されるのだろうなと想像できる。
 だいたい何が良くて何が悪いかなんていうのは人によって違って当然なわけなのに、他人が自分と違うことを信じようとすると全力で阻止しようとする人達がいるというのは本当にめんどうくさい世の中だ。
 人が他人の行動を良いとか悪いとか判断するのは、自分と他人を比較し、私の方が正しいと主張して自己満足したいだけなのではないだろうか。それはただその人が誰かとうなずきあいながら決めた枠組みの中にすっぽり組み込まれて出られない、つまらない人生ですと告白しているようにも見える。
 そういう人達を横目で笑い飛ばして、私は未婚の母になってやろうとますます闘志を燃やしているのである。できれば早く他人にいい意味で「無関心」な時代がやってきて、過ごしやすくならないかなぁと思う。今の社会は他人に興味を持ちすぎている。もう少し放っておいてほしいものだ。
小学校のとき、冬も半袖シャツで登校する子が良い子だと思われていました。長袖の子は半袖の子からわけの分からないヤジを飛ばされたものです。そうなると、クラスのほとんどが半袖を着なきゃならないような雰囲気になり、雪が降ろうが木枯らしが吹こうが半袖で登校し、しかも担任は「一年間半袖で頑張ったで賞」という意味不明な賞状をくれたものでした。この変な賞状をくれた先生は長袖でした。
県立短大は地域的にイメージの良い学校だけど、[入学してみると]講義中の私語が高校並みに多くて、現実はイメージだけでした。
 授業中の私語は悪いとされていますが、シーンとしていると気分的に落ち着けなくなるので、雑音って本当はすごく自分のタメになっていると思います。授業中シーンとなるのは精神的によくないです、個人的に。私語は先生の話が聞こえづらくてイヤだけど、雑音、いえ私語も程々ならいいと思いました。私語、バンザイ。でも、今日はうるさかった。