プルードンとブザンソン

19世紀の思想家プルードンと,その生地であるフランス東部の都市ブザンソンとのかかわりを論じてみました。
『都市と思想家』I(法政大学出版局,1996年7月)pp.190〜203.所収

斉藤悦則

 

 ブザンソンはフランスの東端にあるドゥ県の首都。パリのリヨン駅から出る超特急列車TGVのひとつの終点でもある。そこから岩山を車で越えれば、スイスとの国境はすぐ間近だ。
 プルードンは1809年1月15日にブザンソンで生まれた。かれの生家はブザンソン駅の近くに今も残っている。われわれは駅を出て、ドゥ河へ向かって坂道を下っていこう。川岸の道を流れに沿って少し歩くと、右斜めに入るやや細い通りが見えてくる。プチ・バッタン通りだ。この通りの一番手前の家がプルードンの生家である。見上げれば、壁にはそうと記されたプレートがかかっている。
 ドゥ河はここブザンソンでΩの形に大きく湾曲しており、街の中心はこのΩの内側にある。19世紀において、プルードンが育ったΩの外側の界隈は貧しい人々が暮らす地域であった。わかりやすい棲み分けの図柄である。ちなみに、同郷の先輩、社会主義者フーリエはΩの内側、それも目抜き通りの真ん中で生まれている。文学者ヴィクトル・ユーゴーや映画の父リュミエール兄弟の生家もその近くにある。
 ともかく、われわれはプルードンが味わった貧しさと、Ωの外側にひろがる田園生活とのかかわりで、かれの思想形成とブザンソンのつながりを考えてみることにしたい。

 

I 思想家プルードン

 しかし、まずプルードンの思想の概略を紹介するために、われわれはその搖籃期をとびこえて、かれが世に出て以後のことから眺めてみよう。
 プルードンは1840年、31才のときの著作『所有とは何か』によって一躍思想界の新星としてデビューした。所有はほとんど神聖にして不可侵の権利であるとされていたのに対して、かれは所有を成立させている根拠そのものによって所有の存立不能性を明らかにしてみせたのである。そのレトリックの巧みさ、文章の平明さと説得力の力強さもさることながら、なによりも「所有とは盗みである」と断じたフレーズのアピール力によって、この書物は大評判となった。おかげで、以後プルードンといえば「所有の破壊者」というイメージがつきまとうことになる。プルードン自身にとっては迷惑なレッテルであり、後にもっとバランスのとれた所有論を展開しようとすると「プルードンは変節した」となじられたりもする。しかし、この著作をきっかけにプルードンは1865年1月19日、56才の誕生日の直後に死ぬまで、フランスにおけるスター級の思想家として活躍できたのである。
 1846年の著作『貧困の哲学――経済の矛盾の体系』は、邦訳がないために、われわれにはむしろマルクスの『哲学の貧困』(1847年)によって手ひどく批判された書物としてその名に覚えがある程度のものかもしれない。しかし、当時にあってはこの本は高水準の理論書として評価された。青年マルクスにとっても青年ワルラスにとっても、この本は自分たちが経済学の新しい地平をきりひらくためにはどうしても乗り越えていかねばならない高い峰として強く意識されたのである。文章としてはことさらに難解なところもないのに、読みすすんでいけば自分までが相当に頭がよくなったような気分になり、いたるところで知的興奮が味わえるという名著だ。それが日本語に翻訳されてこなかったのは、ひとえにマルクスが酷評したような本なら読む必要もあるまいといった風潮がこれまでわれわれのまわりに漂っていたからにほかならない。
 そうした呪縛も解けた今、もはや言う必要もないのだが、もともとマルクスはあらぬところをつついてプルードンを批判したつもりになっているのである。1847年当時、プルードンは38才、すでに思想界のスターであったのに対して、マルクスは29才のドイツ人亡命者、旺盛な功名心をもちながらいまだ無名の青年にすぎなかった。その2年ほど前、ドイツ哲学の新しい流れに興味をもつ有名人プルードンに接近しながら、最終的にはやや品性を疑われて遠ざけられている。マルクスが品性を疑われたのは、同じドイツ人亡命者グリュンのことをひどくあしざまにののしるからである。グリュンは家族とともにパリで極貧にあえぎながら、それでも筆一本で生活をたてようとがんばっている。そして、ドイツの新しい哲学をまじめにわかりやすく伝えようとするとき、労をいとわない。プルードンはそうしたグリュンをりっぱな革命的人士と思い、親しくつきあっていた。革命的であろうとする分だけ狭量になっていく人間をプルードンは嫌った。人は互いに異質であるからこそ、その結びつきは内容を豊かにするはずだとプルードンは考える。おまけにグリュンの生活の貧しさと、その貧しさのなかでのがんばりを知っていたので、なおのことマルクスなる若者の情けの薄さを感じとったのである。
 プルードンの著作『貧困の哲学』のライトモチーフもこれにかかわる。すなわち、かれがそこで明らかにしようとしたのは、善をめざす人間たちの営みが善をめざしたことそのものによって必ず悪をもたらさずにはおかないという社会・経済の皮肉なメカニズムであった。善をめざすなというのではない。悪や弊害を除去しようとする手だては必ず新たな悪や弊害をもたらすから、改革の運動はどこまでも続くと観念せよというのである。共産主義者が求めるような最終的で絶対的な千年王国的解決などありえない。絶対的な正しさ、絶対的な真実を口にする者をこそ怪しめ。異質なものを排除し、一元的な純化を賞揚するような傾向を防止せよ。社会主義の誤りや悲劇の種はここにある。これがプルードンのメッセージであった。
  プルードンの社会主義は、生産に対しても消費に対しても強制力を発揮しようとしない。経済の矛盾解決の方途はその中間、すなわち交換・流通の場面に求められる。意欲と力量にあふれる労働者に低利で資金を貸し出す銀行があれば、多数の企業家が生まれ、社会は活性化し、自分の運命に自分で責任をもつ気風も育つ。つまり、各人がおのれの欲するところにしたがって活動しながら、なお全体の秩序がたもたれるという、自由と秩序の同時実現を可能にする。これが1848年前後のプルードンの人民銀行計画の骨子であった。
 この計画は時運にめぐまれず流産してしまうが、48年革命以後のプルードンは国会議員になったり、日刊紙を発行しては発禁の憂き目にあったり、投獄されたり、ベルギーに亡命したりと、かなり波瀾万丈の生活を送る。そんななかで多数の著作をものにする。手紙を書く。さらに、おびただしい量の手稿を未発表のままに残す。つまり、かれは書いて書いて書きまくりながら死んだ。
 そんな仕事人間プルードンの心をなぐさめたのは、しばしば帰郷して眺めるブザンソン郊外の田園風景であり、ジュラ地帯の白い岩山であった。パリのような都会にはどうしてもなじめなかった。パリにあっては、いつまでたってもよそ者気分からまぬがれられなかった。そして、フランシュ・コンテ(ドゥ県とジュラ県をあわせた地方の名称)の人間であること、あるいはジュラ山地の山猿であること(1)をプルードンは自らのアイデンティティとして、終生誇りに思いつづけたのである。
 さて、そこでわれわれもふたたびブザンソンにもどっていこう。

II 田園で育つ

 プルードンは私的なメモ帖のなかで、みずからの出自をつぎのように記している。

「フランシュ・コンテの農民の出。父は樽づくりの職人、母は料理女。わたしはまったく文字どおりの野生児であった。つまり、正真正銘の人間である。落ちぶれはててこうなったのではない。もとからこういう真人間として生まれたのである」(2)

 すでに述べたように、ドゥ河はブザンソンでΩの形にくびれており、Ωのてっぺんあたりにバッタン橋がかかって、街の目抜き通りはここで外側と、すなわち貧しい人々の住むバッタン通りとつながっている。この通りのなかのひとつの路地であるプチ・バッタン通りの端(ドゥ河と接するあたり)がプルードンの生家だ。19世紀にあっては、ここが住宅地と草地の境であった。プルードンの家でも雌牛を一頭飼っていた(といっても、それはプルードンが13才ごろ、一家がかなり無理算段して購入したものだ)。
 夏になると、プルードン一家はブザンソンの西方20キロほどのところにあるビュルジルという村にむかう。母の実家がそこにあり、父もそこに畑をもっていた。樽づくりの職人も夏のあいだは農民に変わるのである。オニョン河のほとりにあるこの村はいまもしっかり田舎のままだが、いずれがプルードンの母の実家なのかはわかっていない。
 プルードンと田園生活のかかわりについては、プルードン自身の証言を聞くのがよい。1858年の大著『正義論』の第14研究「教育」、その第四章「自然のなかの人間」である。かなり長くなるが、その一部を訳出してみよう。

「12才まで、わたしは野良しごとの手伝いをしたり、牛たちの番をしたりして、ほとんど田畑のなかですごしてきた。牛飼いのしごとも5年間やった。まったく百姓以上に瞑想的で、しかも現実的であるような生き方をしている者をわたしは知らない[……]。町にいると、わたしは何とも居心地の悪い気分になった。労働者は田舎の人間とは全然別の種族だ。第一に、話す言葉がちがう。あがめる神さえ異なっている」

「農民ほどロマンチシズムや観念論から縁遠い人間はいない。現実にどっぷりと浸って、ディレッタントなどとは正反対の生き方をしている。田園風景をどんなにすばらしく描き出した絵でも、それに30スウも支払うのは捨て金だと思う[……]。白状すると、わたしも昇る朝日や沈む夕日、月の光や四季のうつろいを描いたものの良さが楽しめるようになるまでには時間とそれなりの学習が必要であった」

「背の高い草のうえをころげまわり、楽しくてたまらなかったあのころ。牛たちの食べる草がわたしにもおいしそうに見えた。柵にそって牧草地の小道を裸足で走りまわった[……]。6月、熱い太陽が空高くにさしかかると、服を脱ぎすてて草地のうえでよく日光浴をしたものだ。[……]野生の果実をとって毎日たらふく食べた。わたしはそうしたものを手づかみにしてむしゃむしゃと食べたが、町なかで上品に育った子どもなら口にも入れられなかったろう。ところが、わたしの胃袋にとって、それは山ほど食べても、夕方になるとますますお腹がすくという食欲増進効果を発揮したのである」

「にわか雨に打たれたことも数知れない。全身びしょぬれになっても、風がふいたり太陽が姿を見せると、服は着たまま乾いてしまう。風呂はいつでも入れる。夏は河、冬は泉だ。木登りで遊び、洞窟探検もした。カエルをつかまえては競走させ、ザリガニとりにもはげんだ。もっとも、このときは恐ろしい山椒魚と出くわす危険性がある。つかまえたザリガニはきまって炭火で焼いた。人間と動物、人間とあらゆる生き物とのあいだにはひそかな心の通い合いや反発がある。文明はそうした感情を失わせてしまった。牛の番をしているとそいつらに愛情がわく。しかし、その愛情は平等なものではない。どうしても、どれかをとりわけて好きになってしまう。にわとりに対してもそうだし、木や岩に対してもそうだ。トカゲは人間の味方だと聞かされていたので、それは本気で信じていたが、ヘビやヒキガエルや毛虫だけはどうしてもおぞましい敵だとしか思えなかった」

「田舎の人間がいだいている迷信を、その根強い幻覚のありようを確かめもせずに、それはだめだと言い張る人々がいる。わたしはむしろそういう人々をあわれに思うことがある。わたしは大人になりかかっていたころもなお、水の精や妖精の存在を信じていた。それを恥じる気持ちはいまもない。それを失わされてしまったことの方がわたしにとっては残念でたまらない」

父といっしょに暮らしていたころ、わが家の朝食はゴードとよばれる茹でたトウモロコシ、昼はジャガイモ、夕食はラード入りのスープで、これが一週間ずっとつづく。イギリス式の食生活をえらそうにすすめる経済学者たちにはもうしわけないが、わたしたちはこうした野菜中心の食生活をしながらもよく肥って、しかも頑健であった。なぜだかおわかりか。それはわたしたちが自分たちの畑の空気をすい、自分たちの農耕でえた作物を食べて生活していたからである。俗に言うとおり、田舎では、その空気が農民にとって栄養となるのに、パリではパンを食べても人々の飢餓感はなくならない。この言葉を口にする人はわたしの言うことの正しさを感じとっている」(3)

 まったく手放しといってもよいほどの田園賛美にみちた述懐である。しかし、かれはけっしてロマンチックな農民社会主義者になりはしなかった。田園のなかで育ち、農民のありようを知りつくしていたプルードンは、だからこそ農民に対していたずらに幻想をいだかない。かれは農民をリアルに眺める。私的な手帖に書き込まれた1847年11月ごろのメモを読んでみよう。かれが農民にどれほど辛辣で批判的なまなざしを投げかけているかがよくわかる。

「農民の思想は人民の思想ではない。ド・バルザック氏は農民の醜悪さを描き出したが、それはすべて当たっている。フランスの人口の大半をしめるこの農民。かれらはもっともおぞましく、もっとも利己的で、もっとも心が狭く、もっとも金銭に汚く、もっとも保守的で、もっとも偽善的な階級であり、もっとも過激な所有者なのである。この連中の心根の卑しさによって、地主や工場主や大商人たちの所有に対する真正面からの攻撃は妨げられている。
 陰険な土地どろぼう、商取引ではずる賢くたちまわろうとするこの農民こそ、国民の本当の腐敗部分である。体制はそこから力を得、それによって支えられている。[……]進歩にとっての真の障害、それが農民だ。農民と労働者は、中世時代の農民と貴族と同じくらい対立しあっている。いまでは農民がかつての貴族に相当する。[……]この連中をやっつけて封じこめる手だてを見いださないかぎり、農民をひきつれたまま進歩らしい進歩を獲得するには百年以上かかるであろう。逆に、その手だてが見いだされたならば、進歩はまたたく間に得られよう」(4)

 田園での生活を賛美しながら、田園で生きる人々にはまったく否定的な評価をくだす。こうしたプルードンの「矛盾」した言説こそが、じつはプルードンの味わいでもある。ことがらのありようを、良い面も悪い面もことごとくとらえたいとするリアリストの目がそこにある。体系化の意欲を先行させた社会科学のおちいるあやまちを、かれはこうしてまぬがれているわけだが、もちろん、その分だけ内容はややわかりにくくなってしまう。そして、われわれにとって多様な解釈を可能にさせている根拠もここにある。
 さて、ブザンソンをとりまく田園がプルードンに与えた影響について、もう少し述べておこう。それは都会生活の華美を虚飾と見、自然とともに質素に生きることこそが人間を本当に人間らしくさせるのだという思想である。つまり、生産力をどこまでも発達させることをかれは必ずしも進歩とはみなさない。足るを知るという思想、自然と融和した生き方と清貧を良きものと見る価値観、こうしたものはわれわれ日本人にとって妙になつかしくはないか(5)。しつこいようだが、ふたたび『正義論』の一節を引用してみたい。

「[20才をすぎてブザンソンの印刷所で働いていたころ]わたしはきれいな空気を吸うために、ドゥ河をはさむ高い山々に登ったものだ。そして、そこで雷雨に見舞われたりすると、ますます景色にうっとりとするばかりだった。岩山のくぼみに身を寄せて、稲妻をじっと眺めるのが楽しかった[……]。稲光、雷鳴、風、雲、雨……、それがわたしだ。わたしはそう思った。ブザンソンでは、雷が光るとご婦人たちは十字を切る習慣がある。思うに、この敬虔なしぐさはある感情に根ざしている。すなわち、自然の異変はすべて人間の魂のなかで起こることを映し出したものにほかならないという気持ちである。それはわたしのうちにもあった」

後には、わたしも文明化されてしまった。しかし、はっきり言うと、わたしは文明からわずかに何かを得たことすらおぞましい。偽善にみちたこの文明なるもの、そこでの生活には色彩もなければ味わいもない。ひとびとの情念には力強さもなければ誠実さもない。想像力はちじこまり、底の浅い気取ったスタイルがあるばかり。わたしは二階建てよりも高い家は嫌いだ。高い建物のなかでは、社会のヒエラルキーとは逆に、大物が下の方にいすわり、小物は上の方に追いやられる。わたしは刑務所が嫌いなのと同じくらい、教会や神学校や修道院が嫌いだし、兵舎や病院や養老院や乳児院を嫌悪する。それらはすべて人間からまっとうな精神を失わせるもののように思われるからである」(6)

 

III ブザンソンで学ぶ

 プルードンの家は貧しかったが、11才のとき、かれは父親のかつての親方の口添えで、街なかのコレージュ(帝立リセが、王政復古とともに王立コレージュに変わっていた)に学費免除の通学生として進学することができた。しかし、裕福な生徒たちにまじった貧乏人の子どもである。そこでの生活は楽しいものではなかった。かれは、ある手紙のなかでこう述懐している。

絶対必要な教科書すら買えませんでした。ラテン語の勉強もすべて辞書なしで行いました。ラテン語作文の宿題は授業中におぼえた言葉をたよりに、できるところだけすませ、わからないところは空白のままにして、学校に行ってからそのブランクを埋めたのです。教科書を忘れたという罪で何度も叱られましたが、もともと持ってもいなかったのでどうしようもありません」(7)

 買えなかったのは教科書ばかりではない。ほかの生徒たちと同じような装いもできなかった。靴が買えなかったので、サボ(木靴)で通い、校舎の入り口で脱ぎ、裸足で歩いた。カタカタと音をたてたくなかったからである。しかし、帽子も買えなかったかれは一目で貧乏人と見分けられた。少年の自尊心が傷つけられないはずがない。『正義論』の第13研究「財産」で、プルードンはみずからの社会主義思想の出発点がここにあることを認めている。

「いま、われわれが研究しようとしているテーマについて、わたしが受けた教育の出発点は階級に差があること、いいかえれば富が不平等に分配されていることであった」

「自分がほかの人々より下にいることがあからさまにされたとき、わたしの心に最初にわいてきたのは恥の感情であった。自分の貧しさに、わたしはまるで何かの罰を受けているかのような恥ずかしさをおぼえた。年老いた婦人がいった言葉の正しさが半分わかってきた。すなわち、『貧乏は犯罪ではない。それよりももっと悪いものだ』。貧乏はわれわれを卑しくさせ、堕落させ、少しずつ貧乏にふさわしい人間にしていくというのである。
 しかし、恥じてばかりはいられない。やがて憤りの感情がそれにとってかわった。はじめのうちは、自分の腕と頭脳で、恵まれた人々と同じレベルに高まろうとがんばったものだ[……]。が、計算をしてみると、わたしが労働者の境遇にとどまるかぎり、けっして裕福になりえないことが明らかになった。そのとき、まじめにがんばる気持ちは怒りに転じたのである。そして、わたしの場合、この怒りは[……]生活条件や財産の不平等の根源をさぐりあてようという方向に向かった。
 ほかの者は密輸業者や倉庫荒らしになった。臆病で敏感なやつは泥棒になった。経済のしくみは、教会が無罪放免しており、[経済学者たちによれば]どうしても不平等を生み出さずにはおかないものだという。わたしはこのしくみを少しずつ徹底的に研究してみようと決意した」(8)

 プルードンは貧しくて本は買えなかったが、読書意欲は旺盛で、プルードンは足繁く市立図書館に通い、いちどきに何冊も借り出しては読みあさった。そんな熱心さが司書のヴェス氏の目をひく。この人物こそ、後にプルードンがブザンソンから飛び立つときの力強いサポーターの一人となる。
 コレージュでの学業成績も優秀で、ほとんど毎年優等賞をもらうほどであった。しかし、最終学年にまで進みながら卒業することができなかった。17才のころ、父が破産の憂き目にあい、プルードンも生活の資をみずから稼がざるをえなくなったからである。1827年、18才のなかばで学業を離れる。
 ついた職業は印刷工であった。本好きのかれにぴったりであるばかりでなく、これは当時としては高給がえられる、かなり知的な職業でもあった。はじめバッタン通りの印刷工場でしばらく見習いをしたあと、街なかにあるブザンソンで一番大きな印刷会社に雇われる。宗教関係の本を専門に印刷していたゴーチエ社である。
 やがて校正係になる。神学関係の本の初校のしごとを一日10時間やらされて、とうとう近視になってしまった。校正する本の関係で、プルードンはヘブライ語を独学しはじめる。これが言語学への興味につながり、あらゆる事象のなかに法則性を見る眼力を育てていく。
 また、フーリエの『産業的新世界』(1829年)の出版にもここでたずさわり、校正のしごとで著者フーリエと直接話をすることができた。そうして、少なくとも一時期、プルードンはフーリエにすっかり魅了されたのである。本人は否定しているが、われわれはプルードンの1843年の著作『人類における秩序の創造』にフーリエの影響の色濃いあらわれを認めることができる。
 プルードンは労働者としても成長していく。ゴーチエ社をやめて、つぎは植字工として別の印刷所で働き、そして当時の慣習にのっとり職人としての巡礼(ツール・ド・フランス)にでかける。1833年、24才のときふたたびゴーチエ社にもどるが、こんどは印刷所の監督としてであった。
 1836年にはゴーチエ社での同僚と共同で、ブザンソンの街なかに印刷所を開いた。27才にしていよいよ親方になったわけだ。印刷職人としてのステップをすべて踏んだことになる。多能工化を労働者の自己解放への道とみなし、教育の目標をそこに設定するプルードンの考え方の背景が読みとれよう。さらに重要なことは、この経験からプルードンは経営者にも経営者なりの難しさがあることを学んだ。これがかれの発想法にみられるバランスのよさ、目配りの広さにつながっている。
 印刷所の経営はうまくいかなかった。プルードンもよその印刷所で校正のアルバイトをしたりする。1838年、共同経営者が自殺した。運転資金に困ることがなかったら、こうはならなかったろう。意欲も力量もある労働者がみずから企業を起こし、なんとか経営をつづけていくことを妨げるような金融事情にプルードンは大いに憤った。
 しかし、これが文筆家プルードン誕生の契機となる。プルードンは、印刷工のときに知り合い友人となった若い知識人たちや市立図書館の司書ヴェス氏のすすめで、1838年ブザンソン・アカデミーの奨学生試験を受けて合格する。これで3年間にわたって自由に研究することが保証された。プルードン、29才。かれの新しい人生はここから始まった。

 

  

(1)プルードンと親しくつきあってきたサント・ブーヴは評伝の書『プルードン――その生涯と書簡』(1872年、邦訳は1970年、現代思潮社)で、プルードンの考えを代弁してつぎのように述べている。「お前たちは旧弊で軽率なフランス人だ、だから私はジュラの山猿、ドゥの田舎者、一徹なフランシュ・コンテ人になろう」(邦訳、150ページ)。《本文に戻る》
(2)手帖、第10冊、501ページ(1854年4月)。手帖はプルードン研究者オプマンによって、第9冊目まで印刷刊行されている。したがって、ここでの引用はオプマンの博士論文『プルードン』による。(Pierre Haubtmann, Pierre-Joseph Proudhon, Sa vie et sa pensee (1809-1849), Paris, Beauchesne, 1982, p.14)《本文に戻る》
(3)Proudhon, De la Justice, (Ed. Riviere), II, pp.402-407.《本文に戻る》
(4)手帖、第6冊、116〜117ページ(1847年11月)。Proudhon, Carnets, (Ed. Riviere), t.III, p.294.《本文に戻る》
(5)これらはファシストに特有のメンタリティだと評する向きもある。なるほど、1930年代、フランスのプルードン主義者でファシズム運動に加わっていった者も多い。しかし、プルードン自身は画一性を好まず、大衆の蜂起を警戒し、ロマンティシズムより合理性を愛した。《本文に戻る》
(6)Proudhon, De la Justice, (Ed. Riviere), II, pp.407-408.《本文に戻る》
(7)1838年、29才のとき奨学金応募のためブザンソンのアカデミーにあてた手紙。『書簡集』(Ed. Lacroix), t.I, p.24.《本文に戻る》
(8)Proudhon, De la Justice, (Ed. Riviere), II, p.57.《本文に戻る》

 

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