社会学者の憤り方――ブルデューに学ぶ

斉藤悦則  

[2004年11月11日脱稿]

 2005年3月31日付で『日仏社会学叢書』第3巻(恒星社厚生閣)として出版されました。
 斉藤悦則・荻野昌弘編『ブルデュー社会学への挑戦 』というタイトルがつきました。
 以下のテキストは pp.87〜109 所収。

 

 


 ブルデューが没した年(二〇〇二年)の秋、日仏社会学会の大会は「ブルデュー追悼コロシアム」と題するシンポジウムを催した(注1)。晩年のブルデューの活動を追ったドキュメンタリー映画「社会学は格闘技だ」(注2)のビデオを流しながら、そのタイトルにふさわしく、ブルデューに対する肯定的な立場と否定的な立場での議論を戦わせようという企画である。私は「否定的な立場」でこれに参加した。いわば「かませ犬」の役回りを割り当てられた。

 社会学の「学界」のほとんど埒外に属する私にとって、これは気軽に引き受けられる立場であった。準備作業そのものにも負担感はなかった。ブルデュー好きの人々にとっては不愉快なことながら、彼が没した直後にフランスの週刊誌や新聞で出た「追悼記事」は故人を批判する内容のものが多かった。私はそれをインターネットで収集し(注3)、学会のシンポジウムでそれらを列挙してみせれば、とりあえず役割をはたしたことになる、と考えた。たいして頭を使う必要もない、楽な仕事だ。

 しかも、それは楽しい仕事であった。ブルデューについてそれまで私が抱いていた素朴な印象、すなわち、ブルデューはマルクスを読めば事足ることがらを、あるいはマルクス主義の諸概念で十分説明できることがらをことさら難解に仕立て直している人という印象、それを多くの批判的な記事が是認してくれた。

 しかし、私にとって難点は、ドキュメンタリー映画にあらわれるブルデューの姿が何とも「好人物」あるいは「人のよさそうなおじさん」に見えることである。また、支配される側、抑圧される側の抗議活動に参加し、社会的発言をおこなう姿は、ブルデューをもちあげる日本の学者たちにはあまり見られなさそうなものであるだけに、ますます好ましく思われた。

 したがって、私はつぎの点を問題にしようと考えた。すなわち、ウェーバーのいう「価値自由」の態度、あるいはむしろスピノザのいう「笑わず、嘆かず、罵らず、ただ理解すること」を是としながら、なぜブルデューは憤る自分を公然化したのか。憤りの根拠は何か。社会学者も憤ってよいとする権利、あるいは憤るべきだとする義務は何にもとづくものなのか。

 二〇〇二年の段階では、私は「冷笑的」な立場を貫けばそれでよいと考え、じっさい「笑っちゃうよ」の一言で結論とした。まなじりを決する人の姿、真剣さ、本気の目つき、こうしたものから我が身を隔て、距離をおいて眺めるのが正しい、というか美しいと思われたからだ。しかし、それから二年後の私にとって、冷笑的な姿勢はかならずしも美しく見えない。いかにも安直すぎるからだ。

 そこで本論では、あらためてブルデューの、さらには社会学者の憤りの根拠について考えてみたい。フランスと異なり、学生はもちろん労働者のあいだですらデモもストライキもほとんどおこなわれない現在の日本で、「ブルデューを学ぶ」ことの意味のようなものもあわせて考えてみたい。


一.決定論からの飛躍

 社会運動に関与するフランス社会学者としては、少し前まではアラン・トゥレーヌの方が有名であった(注4)。そのトゥレーヌはブルデューの没後すぐ『リベラシオン』紙に故人についての感想を求められ、こう答えている。

 「一九九五年のストライキに関して、われわれは互いに衝突したが、ここ数年の彼の立場を見ていると、九〇%賛成したい気がする。彼は社会決定論の側で、私は自由の側に立つけれども、社会学のこのふたつの面は一方がなければ他方が成り立たないという関係にある」(注5)

 月刊誌『人間科学』のブルデュー追悼特集号(二〇〇二年)にも、トゥレーヌのつぎのような談話が載っている。

 「彼の[支配−被支配という]観点はたしかに理論面で重要かつ生産的な役割をはたす。それによって社会システムの隠れた基盤のあれこれが白日の下にさらされる。しかし、同時にそれは絶望的な思想につながる。変化や諸矛盾を考えることもできなくなり、実践および理論の面でわれわれは行き詰まる。

 「一例を挙げよう。偶然にも、私はブルデューが死んだ日、女性問題のセミナーに備えて、電車のなかで彼の本=『男性支配』を読み直していた。男性支配を決定的で容赦ないものとみる彼の理論では、女性の解放運動は考えられないものになる。彼によれば、男性支配は全体的であり、出口がない。突破口はどこにも見いだせない。まさにこの点が私とブルデューを分かつ点であった。[中略]

 「社会学の面で、ブルデューの最大の貢献は文化資本の理論だろう。個人の社会的な位置を決定づけるうえで文化資本の役割は経済資本とならんで重要である。そのことは今日もはや議論の余地がない。しかし、[……]個人が多数の束縛や決定論に囚われているとすれば、この個人にどれほどの自由があるのだろうか。

 「ブルデューは頑迷で粗野な決定論者ではない。そう思う人もいるが、それは当たらない。彼の【ハビトゥス】論は行為者を鉄の檻に閉じこめるものではない。束縛や習慣や行儀作法を内面化することで、人間はその環境での自由を手に入れる。ブルデューは、決定論の認識が自由をもたらすという古典的な観念を、彼なりに受けとめ発展させているのである。」(注6)

 必然性の認識による自由の獲得、という点でたしかに古典的な図柄が再生されている。しかし、ここから社会活動への関与までは大きな隔たりがある。社会の「からくり」を知れば、それと闘わねばならぬ義務がただちに感得されるわけではない(注7)。したがって、ブルデューがあからさまに街頭デモに顔を出した九五年以来、多くの人が感じてきたその「変身」の唐突さは、没後の「追悼文」でいわばいちどきに語られることになる。六八年のときに音無しだったブルデューは、社会決定論者として受けとめられてようやく整合的に「理解」されてきたわけであるから、アンガジェ(社会参加)する知識人という姿はどこかしらウソ臭くも思われた。

 よく知られるとおり、ブルデューはその昔レイモン・アロンのもとで助手をつとめてきた。そのアロンがブルデューを苦々しく眺めていたことも追悼記事のひとつで紹介されている。すなわち、アロンの日記の一部が引用されている。

 「彼は軍役から戻ってきた。その当時から、彼が同世代の連中より抜きんでた力量の持ち主であるであることは歴然としていた。しかし、彼の今日の姿は見抜けなかった。すなわち、セクトの領袖となり、自信に満ち、あたりを支配する。大学内の策謀のエキスパート、自分を不愉快にさせる者には容赦のない人間、彼がそういうふうになるとはわからなかった」(注8)

 生前はひそかに裏で語られてきたことが一挙に表に噴出したような追悼記事の連なりは、ブルデューを支持するひとびとの不興を買った。しかし、そこは彼らも学者であるから理屈で闘わねばならない。すると、おもしろいことにブルデューの「変身」の根拠については、左右というかブルデューのシンパもアンチも、ともに似たような説明のしかたをする。つまり、「ブルデューはもともとそういう人間だった」と解するのである。

 ブルデューに近い側は、たとえば九〇年のインタビューを活字化して(注9)、「もとからの」ブルデューの社会性志向を示そうとする。社会学は批判的な科学であるから必然的に(?)社会学者はアンガジェの営みに走るはずだ、と乱暴に規定する者もいるが、これはご愛嬌(注10)。とにかくブルデューの根底にあるものはゆるぎなく、一貫してそこにある証拠を、あれこれの言葉の断片の収集と接合にもとめる作業がおこなわれる。

 ブルデューに批判的な側は、ブルデューがもともと信用できない人間であること、その変節漢という本性を明らかにしようとする。ブルデュー批判については、生前からすでに定評のある二冊の本が存在するから、没後の作業もその分だけ楽である。ひとつは、リュック・フェリーとアラン・ルノー『六八年の思想』(一九八五年、邦訳は九八年)であり、もうひとつはジャニーヌ・ヴェルデス=ルルー『学者と政治――ピエール・ブルデューの社会学的テロリズムについて』(一九九八年)である。前者の著作はじっさいブルデューによって常に意識され、反駁の必要性を痛感させ続けた、と思われる。また、後者(ヴェルデス=ルルー)は元ブルデュー信者(つまり背教者)であり、かつブルデューの書いたものをほとんど全部読んだ上での批判である点を強みとする。

 『六八年の思想』は歯切れが良い。つぎの引用文だけでもそれが味わえる。

 「必然性の認識はそれを「変革する」ことを可能にするという陳腐な(そして本質的に馬鹿げた)主題」

 「歴史的・社会的現実の内にいまだに個人の自由の余地が残されているという(根拠のない)断言」(注11)

 この本によれば、ブルデューがアルチュセールの構造主義に抗して、人間の主体性(人間的実践の自律性)を擁護したつもりになっているのは、まさしく単なる思い込みか、あるいは「いかさま」である。ブルデューは厳密なまでに決定論的な構造主義と「距離をとるふり」をして、あるいは「距離をとりえたと思い込んで」、主体性回復の試みの成功を主張する。しかしながら、ハビトゥスの定義そのものにより、個人の自由を救い出す試みは、あらかじめ「ブルデューの企てから完全に排除されている」のである(注12)。ハビトゥスの一般的な(世俗的な、と言いたい人もいよう)解釈によれば、これは根拠のない悪罵でなく、それなりの説得力をそなえる。

 アルチュセールは、わが国の荻野昌弘がいうように「自由であることが従属につながるというパラドクス」を摘出してみせたが(注13)、そうした力業のみごとさをブルデューには期待できない。それはブルデューが弁証法のセンスを「奇妙なほど欠いている」(注14)ばかりでなく、そもそもマルクス主義という「みずからの出自」を隠すような腰抜けのマルクス主義者だからである(注15)。アルチュセールは、市場関係を完全に払拭した人間社会(すなわち共産主義)をはるか彼岸に眺め、資本主義を離れてそこへ向かうべく、社会主義という「糞の河」を渡る覚悟を示した。その潔さがブルデューにはなく、資本主義の悪弊を言い募ればいつかは幸せが訪れると説くような偽善者的な態度をふりまく。「認識論的切断」なる言葉を発すれば「認識論的切断」がなされるわけではない。「ドクサ」なる言葉を知っているからといって、それで自説がドクサでないことの保証にはならない。

 そうした批判はブルデューの痛いところをついたようで、よく知られているように、それ以後ブルデューは自分が俗に言う決定論者でないこと、ペシミストでないこと、反省的な分析を心がけていることなどをひたすら証明しようとする。

 さて、九八年のジャニーヌ・ヴェルデス=ルルーの本は、たしかにやや悪罵に近い。彼女は元ブルデュー信奉者であるがゆえの、過剰なまでの反発かもしれない。要するに師ブルデューの人柄の悪さをきわだたせるのが彼女の目的のようであるから、師の発言・記述の矛盾、つまり「二枚舌」を証明するために引用が微細に渡る。しかし、基本はブルデューをレーニン主義者と断ずる点にある。マルクス主義者の系譜に位置づけなおすことで、批判は完遂される。

 彼女はいう。

 「ブルデューの講義は奇妙で馬鹿馬鹿しいものであった。なぜ彼は同じ言葉を必ず繰り返して言うのだろう。われわれを耳が悪いと思っているのか。知恵遅れだと思っているのか。そうではない。彼はレーニンと同様に、自分は正しいラインを歩いていると固く信じ、その確信にのっとって他者を導き、他者の活動をコントロールしたいと思っているのだ」

 「彼をレーニンと同列視すると、いろんなことがよくわかってきた。ピエール・ブルデューの見かけ上の独自性の奥も理解できた。「ぼくは自分が知識人に見えるのは好きじゃない」と彼はよく言う。それは彼が知識人以上のものになりたいってことなのだ、とわかった。レーニンとブルデューの両方に見られるように、ふたりとも自分の計画の偉大さ、そのなかで自分の果たす役割の圧倒的な大きさを自負する。表明されたイデオロギーのかげで、ふたりには「民衆」「被支配者」に対するシンパシーの欠如が認められる。しかも、それは「民衆」礼賛という見え見えのデマゴギーとセットなのだ」(注16)

 社会学者としての名声、というよりコレージュ・ド・フランスの教授という肩書きの力を利用して社会活動に割って入るのは自由だが、ハビトゥス論に見られる社会決定論的な枠組みとのズレをそのままにしておいてよいのか。下賎な言い回しでいえば、落とし前をつけずに先に進むのは学者として不誠実、無責任なのではないか。彼女はそう問いかけているのである。


二.ブルデューの権威と権力

 文化資本論の立場にたてば、貧しい家庭に生まれたブルデューがコレージュ・ド・フランスの教授になれたのは「偶然なの? 奇跡なの?」と、ヴェルデス=ルルーは問う(注17)。誰もが問いたくなるような一般大衆向きのテーマであるが、彼女によれば、ブルデューは自分の世俗的成功については分析しようとしない。むずかしくいえば、反省性という視点が欠落している。やさしくいえば、卑怯である(注18)

 そして、アンガジェする社会学者になったとたん、ブルデューは自分が民衆の出であることを誇る。自分の生まれついてのハビトゥスが、その後の知的生活で身についた諸属性よりも強調される。つまり、ブルデューは二重に卑怯である。ヴェルデス=ルルーは、こういう形でブルデューの理論と実践の怪しさを証明してみせた。

 じつは、ヴェルデス=ルルーが抱いたのと類似の疑念を、一九九九年にブルデューと対談した石崎晴己ももらしている(注19)

 石崎はブルデューに向かって、あなたは大学者、大知識人、あるいはそれ以上の存在、と持ち上げ、ブルデューが少し図に乗ったところへ鋭いツッコミを入れる。その答えがいささか宙にさまよう体のものになっており、後で述べる石崎のためいきにも似た感想につながっていく。たとえば、石崎は知識人のアンガージュマンについて質問し、サルトルを乗り越えたつもりになっているブルデューの自慢気な姿を明らかにしていく。

 いわゆる象牙の塔にとじこもり、同業者どうしで間合いを計りあい、批判しあい、あるいは賛美しあっているだけのアメリカ型・ドイツ型の研究者と異なり、フランスの知識人はアンガージュマンをヴォルテール以来の伝統として受け継いでいる、とブルデューは誇る。そして、「この伝統があることによって、一部の知識人がその名声という象徴的権力と専門的能力をある種の行動のなかに投ずることがおこる」という。ブルデューはアンガージュマンを知識人の権利として語り、その社会的な効用・効果、民衆にとってのそのありがたみを語るが、しかし、なぜ知識人が(あるいはブルデュー自身が)ぜひともそうしなければならないか、その活動の根拠、その義務の有無については語らない。せいぜいその根拠として浮かび上がるのは、それがフランスの伝統だからだとか、そうすればみんなが喜ぶからといった程度のことにすぎない。

 ブルデューは「私がやろうとしたのは、知識人たちをこの社会運動に接続しようとすることでした」といい、「私は政治をしているのではなく、自分の仕事をしているのです。社会科学の武器を分配しているのです」という。いかにもありがたいお言葉ではあるが、名声を得たから名声を利用する、権威を得たから権威を利用する、なんとも深みに欠ける動機・底意が見えて鼻白む。石崎が対談後に書き添えた解説にも、それが「疑問」の形であらわれる。すなわち、ブルデューのアンガージュマンは「学問的進展に行き詰まったための「前方への逃亡」ではないかという疑問」である。

 九三年に刊行された『世界の悲惨』がベストセラーとなり、ブルデューは「社会的な不幸に悩む者たちの身の上話に耳を傾ける慈父の如き」イメージを世間的に確立することができた。これに乗じて社会活動に打って出るのは理解しやすいことがらであり、まだ許せる。しかし、権威に乗じて批判を許さぬまでになるのはいかがなものか、と石崎は嘆ずる。いわく、「彼が他の知識人やジャーナリズムを批判するとき、アカデミズムの権力と権威を振りかざしていると映るのも故なしとしない」(注20)

 権威をふりかざす、あるいは権威を利用する姿勢は、社会の改良(福祉の充実)に国家の介入を要求する姿勢と重なる。ブルデューは『市場独裁主義批判』(一九九八年、邦訳は二〇〇〇年)で、国民国家の「普遍的な機能」は擁護すると公言する。ネオリベラリズムの大波に抗して、「被支配層は国家を、特にその社会福祉的側面を、擁護しなければならない」(注21)という。しかし、ブルデューが『政治』(二〇〇〇年、邦訳は二〇〇三年)でいうには、「被支配者層が実効的な戦略を持ちうるのは、その戦略が集団的となる場合のみであって、つまりは集団的意見の構築とその表現に関する戦略が必要となる」(注22)。いうまでもなく、そのとき被支配者層には運動のガイド役(集団のまとめ、導く者)、あるいは「諸君は正しい」「真理は諸君とともにある」との託宣を下してくれる権威の介入が必要となるわけだ。

 アンガジェする知識人の出番である。真の知識人は「知的な権威と能力を後ろ盾として[……]自身の全責任において、政治に介入する」(注23)。ところが、現実にはこうした知識人は少ない。ほとんどの知識人は非参加型(デザンガジェ)である。ブルデューによれば、その理由はこうだ。「それは部分的には、知識人が文化資本の所有者であり、たとえ支配層のなかの被支配層であっても、支配層に属しているから」である(注24)。そこでブルデューは、アンガジェする知識人を結集させようとした。彼のいわゆる「集合的知識人」は、彼のあたえた定義によれば、なかなかすてきなひとびとである。まず、彼らは党派的精神と無縁のひとびとである。彼らは社会運動やその将来についてのあらゆる質問に答える予言者ではなく、専門家の看板を掲げてお説教を垂れにやってくる人間でもない。彼らが集会に出るのは、代弁者、スポークスマンとしてではない。彼らは「自分のアイデア、自分の論理を持って、討論と研究の場にやってきた市民」にすぎない(注25)

 サルトルのような「普遍的知識人」ではなく、個別領域の専門知識を生かして社会に関与する「特殊的知識人」たちの集合体をつくりたい、というのである。そこでわれわれにも、いくつかの難問が見えてこよう。第一に、この平服を着た市民としての個々の知識人は、いかにして「知的な権威」をふるうことができるのであろうか。知的な権威こそがアンガジェする知識人と他の一般市民をわかつ《ありがたみ》だとすれば、それを発揮できない知識人はたんなるしゃべりたがり、騒がしい人にしか見えない。第二に、専門の領域を大事にする知識人たちが集合体をつくるのは、学問の自律性を脅かされる場合、自分たちの「界」において利害が一致している場合に限られよう。国民的な課題、あるいはより普遍的なテーマで結集することもあろうが、その場合、彼はいかなる権利で自分の専門外のことに口を出すことができるのであろうか(注26)。つまるところ、シンポジウムなどと同様に、知識人の集合体にもコーディネーターが必要なのである。ガイドのガイド、権威の上の権威、はっきりいえば領袖の存在が必要になる。

 ブルデューに批判的なひとびとが語るように、ブルデューはひとつの派をなし、その長となった。そして、集合的知識人を束ねようと全力を尽くしたが、その企ては「とても困難」であったと自ら述べている(注27)。困難は当然である。結集する動機が、御大ブルデューによる呼びかけという一点以外になく、拡がりにつながる根拠がないからである。そして、じっさい領袖が没して以降は、この集合的知識人たちは社会的な発言をしたり政治に介入するよりも、内々の互助的なサークルを維持しているだけのようにも見える。もちろん、視野の広い人にはもっと違った光景が見えているかもしれないが、日本にいるとブルデューの憤りを分有している社会学者の姿はなかなか見えてこない。


三.怒りの才

 ブルデューの理論を、各人の出自や育ちがそれぞれの性向・嗜好・性癖を決定づけるものと、やや浅薄に解釈すると、ブルデューのアンガージュマンの根拠も容易に(もちろん浅薄に)説明できる。もともと下層の出だから下層のひとびとの苦悩もよくわかり、彼らと憤りをともにできるのだろう、と直線的に解する。私が本稿の前段で紹介した批判、すなわちブルデューは自らの出自を隠す卑怯者、下層へのシンパシーを欠いた者と断ずる批判とは逆の解釈である。ここからさらに、ブルデューの生まれの貧しさを積極的にもちあげ、その点こそがブルデューの最大の利点とする解釈の流れもある。

 そのひとつの洗練されたバージョンをわれわれはジャック・ブーブレス『ブルデュー、知識人にして政治家』(二〇〇三年)のなかに見ることができる。

 コレージュ・ド・フランスでブルデューの同僚だった哲学教授ブーブレスは、ブルデューの「偉大さ」をその目線の低さに求めた。世間的にもっとも権威のある知識人・大学者というポジションをえながら、目つきも感性もつねに下々の民とともにあったこと、これがブルデューを他の凡百の社会学者とわかつ点だという。そしてブルデューの『パスカル的瞑想』(一九九七年)にひっかけ、パスカル『パンセ』の「人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っている点で偉大である」といった言葉をわれわれに思い出させつつ、ブルデューをどこまでも持ち上げてみせる(注28)。そして、「ブルデューの偉大さは、その営みがひとつの方向性をもち、その方向性が終始一貫して揺るがなかったことにある」といい、その揺るぎなさの根拠をこう自問自答する。

 「ブルデューはその知的な営みにおいて、なぜあれほど確固たる足取りを保ちつづけられたのだろう。私はそのことをしばしば自問してきた。そして、私の頭に浮かんだひとつの答え[……]それは、彼が登山家の心構えで科学を実践してきたこと、すなわち、一番下の足を軸足に踏んばることが一番確実に前進できる術だと知っていたことだと気づいた。ブルデューがあらゆる分野で、あれほど確実に前進できたのは、ほかの誰よりも、とくに哲学者の誰よりも、すくなくともかなり低いところを足場にしていたからだ、と思う。社会的現実の、というか端的に現実のかなり下のところを足場にしたからである」(注29)

 しかし、出自がものをいう、とすれば、あの中国の文化大革命の悪夢につながりかねない。したがって、下層の出だから下層の苦悩がわかる、という図柄はあまり説得力をもたない。それよりも、下層の暮らしで培われたメンタリティ、あるいは性向がブルデューの科学的精神の鋭敏化につながり、彼の理論に魅力的な輝きを与えることになった、とする解釈の方がわれわれにとってはのみこみやすい。つまりは「志の問題」である。この解釈はミシェル・オンフレイのものである。

 オンフレイは快楽主義、左翼ニーチェ主義を標榜し、多数のエッセイ本をものしている哲学者だが、二〇〇二年の著作『怒りの才を賞賛する』では、ブルデューに対する非難中傷的な追悼文のあれこれをズバズバと切り捨ててみせる。たとえば、レイモン・アロン(先の注8を参照)について、この人物はたんにジスカールデスタン元大統領やレイモン・バール元首相の「茶坊主」だった男にすぎない(注30)、と断じて、ブルデュー学派の心を慰めた。

 ブルデューの死後にあらわれたブルデュー肯定派の本、たとえば、先にあげたブーブレスの本は礼賛ぶりが演出過剰で、少し偽善臭い。また、ブルデューから一歩離れたフィリップ・コルキュフ『もうひとつ別のブルデュー、闘う社会学者の弱点』(二〇〇三年)は、ブルデューの強さと弱さを示して、その乗り越えを説いてみせるが、志は低い。憤りの意義が見えてないので、末尾(結論部分)で「闘う社会学者のあれこれの弱点は、自らの弱さと力の限界を認識した新しい勢力の構築に関わることを可能にする」と述べているように、いかにも腰が引けている(注31)

 それらに比べるとオンフレイの主張は、理論的に粗雑な分だけむしろすがすがしい。オンフレイはブルデューと面識もなく、ブルデューが出たいずれの会合・集会にも参加したことがなく、ただ活字を通してしか知らず、何の利害関係もないことを誇っているが、それはとりあえずどうでもよい。ただ、オンフレイのメリットは、宿命論者ブルデューと社会的活動家ブルデューの矛盾を「志」の一点でずばりと「解決」してみせたことにある。

 オンフレイはいう。貧しく恥ずかしく惨めな暮らしは、人の心に「怒りの才」を育むが、これを保持するのはなかなかできない。じっさい、貧しいひとびとの同類だったはずの者たち(左翼)がやがて自分の出身階層を裏切るのは、ほとんど大量の歴史的現象といってよい。したがって、出自がその後の政治的態度を決定づけるわけではない。ましてや、ブルデューの場合は、田舎の貧しい生まれの男が社会的な尊敬を受ける第一級のポジションにまで登りつめたわけであるから、その他おおぜいの大学人と同様、上流階級に仲間入りした気分になって、権力の走狗と化しても不思議ではないはずだ。ところがブルデューは(オンフレイの「直感」によれば)「狼」のままにとどまった。また、ブルデューが社会闘争にくみするのは、けっして彼自身の理論に導かれての必然性によるものではない。理論の中身・自己発展の流れによるというよりは、理論を組み立てる姿勢が内なる「怒りの才」と和することにより、晩年に獲得した知的権威を武器としながら、彼は社会的活動の場に乗り込んでいけたのである。

 オンフレイは「直感」でこのように理解したが、この仮説はブルデュー生前最後の著作『科学の科学と反省性』(本稿の注18を参照)で確証されたとする。いわく、ブルデューの「理論的分析はすべて彼の主観的、私的、個人的、肉体的な経験に由来する。孤独と恐怖、唯我独尊と苦悩のなかでつくられた経験に由来する。[……]その姿を変えた暗いエネルギーによって、彼は一種の《怒りの才》をすすんで我が物とした。[……]そのことでピエール・ブルデューの世界観は有効性を失い、たんなる実存の一回性をあらわすものにすぎなくなっただろうか。逆である。そのことによって、ますます生き生きと、より人間的に、より生身に近く、よりまっとうで、より真実になった。腹の底にある志、それは反駁しえないものとなる」(注32)

 われわれもオンフレイが挙げた本の別冊的な『自己分析のために』をもう一度読んでみよう。たしかに、この自伝的な本のなかでブルデューは自分がそもそも怒りん坊であったことを告白している。

 「私は自分のハビトゥスの特性を少しずつ、おそらく他者のまなざしを通して発見した。男らしいプライドとか見栄を大事にしたがる性向と並んで、ほとんど遊びのように喧嘩をしたがる癖、《ちょっとしたことで》すぐに憤ってしまう性向がある。いま思えば、それは私の出身地の文化的特性と結びついている」(注33)

 この証言だけではブルデューにおける「憤り」の積極的な意義は見えてこない。「憤り」が彼にとって重要な意義をもっていたことは、もうひとつ別の本のなかで語られている。それは八九年から九〇年にかけてのインタビューを冊子化した『憤ることができるので、この世をがまんできる』(二〇〇二年)である。ブルデューはこんなふうにいう。

 「私は怒れる若者でした。これからは怒れる老人になりたいですね。私は自分の腹のなかの本音に忠実でありたい。たしかに少しナルシストっぽい感じですが、まあ、そうです。他方、これが私が正気でいられる基本なのだと思います。いろんなことが世間の常識どおりで当たり前のように見えてしまえば、世の中はじつにつまらない。[……]とにかく、なぜかしら、あらゆることが私の気に障ります。しかし、おそらくそのおかげで私にはまわりがよく見える。ゴフマンも同じなんじゃないですか。私よりゴフマンの方が例としてわかりやすいと思うのですが、ゴフマンは、人間の諸関係をごく細部にわけいって明らかにしてみせる、すばらしい研究をしました。彼は陰険で厳しい人だったといわれます。それは単に、彼にとって世の中がきわめて生きづらいものだったからでしょう。一方、私は憤ることができるので、この世をがまんできるわけです。いや、つい本心を語ってしまいました」(注34)

 ブルデューはまさしく「怒りの才」を語っている。それは社会学者にとって大事な才能のひとつらしい。また、社会学者をアンガージュマンにかりたてるのもこの「憤り」である。

 こう解釈すると、ブルデュー没後のブルデュー社会学の遺産相続についても、われわれにわかりやすい図柄が見えてくる。ブルデュー社会学のいちばん大事な部分、その輝きの光源、その魅力の根源、それはブルデューの「感性」と「志」であった。ブルデュー社会学の用語や概念だけを受け継いで、アンケートやインタビューをおこない、「業績」をあげても、その大半は「だから何?」といわれる手合のものである。つまり、ブルデュー社会学は受け継ぎにくい。「憤り」は気質の問題でもあり、「憤り方」はなかなか術(テクニック)として体系づけられないからである。


四.言挙げせよ

 二〇〇二年の秋、日仏社会学会が催した「ブルデュー追悼コロシアム」で、私は故人を冷笑する「役割」を引き受けた。当時はまだポストモダンの空気が残っており、冷笑するのが文字どおりクール(かっこよさげ)に思われ、上調子にしゃべっていい気になっていた。客観的には批判の底が浅いと見抜かれたこともあって、むしろ私の方が冷笑を浴びてしまった。

 当日、ブルデューを擁護する側に立ったのは紀葉子(東洋大学)である。紀と私はそれまでつきあいもなく、それ以後もまったく交流する機会をもたぬまますごしている。ところが、思いがけぬところに接点があった。

 ある大学の三教授解雇事件にかかわる。「三教授を支援する全国連絡会」の呼びかけ人に私と紀はともに加わっていた。私の場合は、旧友への友情にもとづく参加であったが、紀の場合はもっと高邁な義憤に燃えての参加のようであった。そして、私の「活動」はいくばくかのカンパと裁判傍聴にとどまる。一方、紀はこの連絡会が主催した公開シンポジウム「学問の自由と研究者の人権」(二〇〇三年九月二一日、於キャンパスプラザ京都)で演壇にたち、知識人のはたすべき役割についてすばらしい演説をおこなったりしている。すばらしいというのは、話の内容についてのみならず、ブルデューの社会学を学ぶ者はブルデューの志をも学ぶべしと彼女が生身をとおしてアピールしている、その豪胆さと潔さを評したものである。

 紀の講演の内容はブックレット『いま、大学で何がおきているか』(二〇〇四年)で読むことができる(注35)。そのなかで彼女は、大学人=知識人よ、いまこそ言挙げせよ、とアジる。私はそれを読みながら、思わず恥じ入り、うなだれてしまった。

 紀は、不利な状況におかれているひとびとに護身のための武器を与えるのが知識人のしごと、というブルデューの考えを紹介し、最近の知識人(とりわけ大学教員)はそのしごとを怠っている、と嘆く。そして、いわく、その背景にはポストモダニズム的風潮がある。おかげで大学教員にも、ゆきすぎた相対主義にとらわれている者が多い。自分が「正しい」と思うことを「正しい」といえず、ついには相手に語るべき言葉を失い、あいまいに笑ってみせるだけの存在になりはてる。そんなことで教師がつとまるのか。ブルデューが断じているように、教員とは、ある種の価値観、考えを押しつけるという暴力を行使することしかできない存在なのだ。学生にとってフレンドリーな教員、学生にたいし権威的なふるまいをしない教師は、教師の役割を自分で放棄した教師にすぎない。

 ああ、紀によって責められているのは私のありさまだ。これは弱ったことというより、紀がブルデューから憤り方まで学んでいるのかと思えば、ほほえましくも、うるわしいことであった。

 紀はさらにブルデューに寄り添いつつ、ソクラテスの産婆術を例に「言挙げ」の必要性を語る。すなわち、「何かを生み出すためには力を加えなければいけない。[……]だとするならば、知識人は間違いを怖れずに、もっと言挙げをしていくべきだったのではないだろうか。[……]そして実際に言挙げされなかったことは、ないことも当然であるかのように扱われてしまっている。[……]諸問題も人々に知られなければ、問題として認識されることもなく、「ない」ことにされてしまう。「ない」ことにされないためには、やはり私たちは、もしかしたら誰にも耳を傾けてもらえないかもしれないけれども、言葉を紡いでいかなければならない」(注36)

 社会学は、たんに社会事象を常識と異なる角度から眺めて楽しんだり、予想外の因果関係を発見して楽しんだりするだけの道具ではない。それは抑圧され虐げられているひとびと、支配に苦しめられているひとびとに、そうした世の中は「変えられるもの」であることを教え、「変えられるもの」を変える力を与える。

 なるほど、ここまでなら誰もがうなずけそうな話である。しかし、紀の要請はもう少し先のところまで進む。すなわち、抑圧されてないような気がするひとびと、世の中には苦しいことより楽しいことの方が多いような気がするひとびと、あるいは何も考えないでいられるようなひとびとに対し、彼女の社会学は「目覚めよ」と叫ぶ。これは余計なお世話だろう、と評するのはポストモダン的風潮の影響らしい。私はその影響をもろに浴びているわけだが、ブルデュー本人なら私をそれほど非難はすまい。なぜなら、彼は現実の(すでにできあがった)社会運動に加担し、その運動に武器を提供する立場のように思われるからである。何か武器はありませんか、と人に問われたときが自分(社会学者)の出番だと心得ているように思われる。

 ブルデューの場合、憤りは武器(かれの社会学理論)をさらに鋭く研ぎ澄ますために用いられた。理論が鋭くなり、武器としての効用も高くなったことで、ブルデューの社会学は輝きを増した。ブルデュー自身、自分の憤りについてそう自覚している。長年の気質を社会学者としてのすぐれた資質に変えた。したがって、憤りが外に向かって公然化するのは、彼においてはいわば副次的なことがらにすぎない。とはいえ、われわれがブルデューから憤り方を学び損ねると、われわれの社会学はきわめて切れ味の悪い鈍刀にしかならない。

 とにかく、われわれはまだブルデューの大事な部分を学び切れてないような気がする。社会学者にとって「志」と「憤り」はきわめて大切だ。ブルデューが、ブルデュー自身の理論の枠をこえて、われわれに教えているのは、まさしくそれである。


  • 1.日仏社会学会の二〇〇二年度大会は、一〇月一二日、宮城県の尚絅女学院短期大学(現尚絅学院大学)にて開催。
  • 2."La sociologie est un sport de combat"、ピエール・カルル監督、フランス映画、二〇〇一年五月封切。
  • 3.ブルデューの没後(二〇〇二年一月二三日以降)にあらわれた批判や論争のテキストを、現在でも掲載しつづけているWebサイトがある。そのうちのいくつかはリンクが切れているが、それでもこのサイトのおかげでわれわれはまだかなり豊富な資料にアクセスできる。http://www.homme-moderne.org/societe/socio/bourdieu/mort/
  • 4.ピエール・アンサール『社会学の新生』は、現代のフランス社会学の「学界」を巧みに腑分けし、トゥレーヌやブルデューの位置を示してみせる好著である(山下雅之監訳、藤原書店、二〇〇四年)。原著の刊行は一九九〇年(邦訳は九五年の第三版にもとづく)であるためか、「街に下りた社会学」に関してはブルデューの慎ましさが強調されている。
  • 5."La reaction de Alain Touraine", Liberation, 25/01/2002
  • 6.Alain Touraine, "La sociologie du peuple", Sciences Humaines, Numero special Pierre Bourdieu 2002, pp. 102-103.
  • 7.P・L・バーガー『社会学への招待』(私も教員なりたてのころ、これを教科書にしていた)の結論部分が思い出される。「人形たちと違って、われわれには自分たちの動作をやめて自分たちを動かしてきたからくりを見上げ認識するという可能性が残されているのである。この行為にこそ自由への第一歩があるのだ」(水原節夫・村山研一訳、思索社、一九七九年、二五八頁)
  • 8.Nouvelle Observateur, 31/01/2002
  • 9.Bourdieu, Si le monde social m'est supportable, c'est parce que je peux m'indigner, Editions de l'Aube,2004.
  • 10.同上。インタビュー相手のアントワーヌ・スピールによる序文「ブルデューの思想の基盤」からの引用(ibid, p.7)
  • 11.リュック・フェリー&アラン・ルノー『六八年の思想』、小野潮訳、法政大学出版局、一九九八年、二〇〇頁。
  • 12.同上、二〇一頁。
  • 13.荻野昌弘ほか『社会学の世界』、八千代出版、一九九五年、一七六頁。
  • 14.『六八年の思想』、一九五頁。
  • 15.同上、二〇九頁。
  • 16.Jeannine Verdes-Leroux, Le savant et la politique, essai sur le terrorisme sociologique de Pierre Bourdieu, Grasset, Paris, 1998, pp. 29-30.
  • 17.ibid., p.195.
  • 18.没後に出版された『自己分析のために』(コレージュ・ド・フランスの最終講義の原稿を、二〇〇一年末に『科学の科学、および反省性』のタイトルで出版されたものの最終章の部分を再編集したもの)のなかで、ブルデューはこの問いに答えようとする姿勢を示す。また、「この本は自伝ではない」といいながら、自伝としても読めるように書かれている。優等生っぽく権威に従順だった自分と、そうした自分を嫌悪する自分の姿を示す。そして、「読者のみなさんが、みなさん自身の経験、問題、苦悩を私のそれと重ねて、そこからみなさんの生活や営みをほんの少しだけより良いものにする手段を引き出してくださるなら、著者としてこれにまさる幸せはありません」としめくくる。(Pierre Bourdieu, Esquisse pour une auto-analyse, Raisons d'agir, Paris, 2004, p.142.)
  • 19.ピエール・ブルデュー+石崎晴己、「『世界の悲惨』から国際社会運動へ」、『ブルデューを読む』、情況出版、二〇〇一年。(初出は雑誌『情況』、一九九九年十二月号)
  • 20.同上、二四八頁。
  • 21.ブルデュー『市場独裁主義批判』、加藤晴久訳、藤原書店、二〇〇〇年、七四頁。
  • 22.ブルデュー『政治――政治学から「政治界」の科学へ』、藤本一勇・加藤晴久訳、藤原書店、二〇〇三年、一二七頁。
  • 23.同上、一五四頁。
  • 24.ブルデュー『市場独裁主義批判』、七九頁。
  • 25.同上、九九頁。
  • 26.エドワード・W・サイードは、逆に知識人の専門分化を、独創性と意志を脅かすものとして否定的にとらえる。サイードは、知識人が狭量な専門観点にしばられることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられて活動することに、むしろ積極的な意義を付与する。アマチュアで何が悪い、と開き直るのである。(サイード『知識人とは』、大橋洋一訳、平凡社(平凡社ライブラリー)、一九九八年、一二六頁以下)
  • 27.ブルデュー『政治』、一一四頁。
  • 28.Jacques Bouveresse, Bourdieu, savant & politique, Agone, Paris, 2003, pp. 43-44.(初出は、二〇〇二年一月三〇日付けの『ル・モンド』紙によせた追悼文)
  • 29.ibid., pp. 27-28.(この一文は、二〇〇二年二月二日のデモのときの演説原稿による、とされる)
  • 30.Michel Onfray, Celebration du genie colerique, Galile, Paris, 2002.
  • 31.Philippe Corcuff, Bourdieu autrement, fragilite d'un sociologue de combat, Textuel, Paris, 2003, p.130.
  • 32.M. Onfray, op. cit., pp.98 et 100.
  • 33.Bourdieu, Esquisse pour une auto-analyse, pp. 114-115.
  • 34.Bourdieu, Si le monde social m'est supportable, c'est parce que je peux m'indigner, Editions de l'Aube,2004, pp. 58-59.
  • 35.鹿児島国際大学三教授を支援する全国連絡会事務局編『いま、大学で何がおきているか――市民のための「大学改革」をめざして――』、かもがわ出版。二〇〇四年。
  • 36.同上、六二頁。