『週刊読書人』(99年7月30日号)掲載の書評

市田良彦(神戸大学教員)

絶対的民主主義からの出発

マキャヴェリを橋渡しにマルクス論とスピノザ論を総合する仕事

 

 アントニオ・ネグリの本格的な仕事がはじめて日本に紹介された。まずはそのことを素直に喜びたい。これまで日本語で読める彼のテキストとしては、『現代思想』などに訳出されたいくつかの論文と、フェリクス・ガタリとの小さな共著『自由の新たな空間』があるばかりで、つとに名高い『マルクスを越えるマルクス』も、『野生のアノマリー』も日本の読者の前にはまだ姿を現してはいない。彼について知られていたことといえば、『資本論』よりも『グルントリッセ』のマルクスを評価し、そうした理論的方向性を「労働の拒否」という特異な政治的スローガンに結びつけたこと、スピノザを革命的唯物論者として読み、立場のかけ離れたドゥルーズとアルチュセリアンの両方から称賛されたことぐらいだったろう。ネグリという名前そのものはしかし、イタリア・アウトノミア運動への過酷な弾圧や亡命者生活という彼の境遇と結びついて、はるかによく知られていた。つまりアントニオ・ネグリについては、名声と受容の間に大きなアンバランスがあったわけである。

 そこに、バランスを回復させるきっかけとなりうる翻訳が登場した。原著は前記二著作に続く、彼の三番目の大きな仕事だといっていい。九二年、亡命の地パリで書き上げられた、それまでのマルクス論とスピノザ論を総合する仕事である。マルクス論に親しむ人はスピノザ論には深入りせず、スピノザ論に魅了される人はマルクス論には言及しないといった、読者層の分裂まで現実に招来していたネグリの二つの仕事が、ここでマキァヴェリに架橋されて地続きになる。マキァヴェリ−スピノザ−マルクスを結ぶ太い線が、近代における抵抗の水脈を形成する系譜として、続く未来を準備する路線として、力強く引かれる。この線こそ、彼が構成的権力と呼ぷ概念だ。三人の誰も用いてはおらず、憲法の効力の源泉という法哲学的問題を指示してきた概念を、ネグリはまったく別の問題構成に通じる扉に変えてしまう。

 構成的権力とは何か。ルソーなら、社会契約を結ぶ諸個人そのものだと答えるだろう。いっさいの法に先立ち、いっさいの法を構成する権能とは諸個人以外にはない、と。ロマン主義者なら、それは国民であるというだろう。過去のすべてを内に包蔵することにより、ただ一人未来を眺望する資格を有している国民である、と。ロマン主義者によると、歴史とはこの時間論的資格の名であり、法はその名をもつ者が実在している証拠である。国民というその者がいなければ、誰が法に従うというのか。ハイデッガーはまた別の答えを与えている。構成するものとは、構成されたものが自分自身と結ぶ関係にほかならず、本当は先に在るものが後からしか無いという転倒した関係が、実はいっさいの先に在るのだ、と。

 ネグリもまた一面で、近代社会思想の主流を形作ってきたこの一連の回答を承認する。構成的権力とは、法に先立つ主体である(ルソーへの承認)。構成的権力は、構成された権力から遡行して見出される(ロマン主義者への承認)。そして構成的権力は一つの逆説である(ハイデッガーへの承認)。つまり構成的権力とは、構成された現在から過去に遡って見出される逆説としての主体であるということを、ネグリもまた出発点において承認している。ところが彼は、この遡行そのものが、近代にあっては構成的権力を飼い慣らし、コントロールする方途にほかならないと見なすのだ。遡行という手続きがすでにして、出来上がった現在の正当化のためにその現在を過去に投影する態度と分かちがたい。そのようにして、構成する力は構成された力の枠のなかに、構成された力によって閉じこめられるのである。だからこの見方には、ネグリ的といっていい逆説がある。遡行的にしか見出されないものを、遡行的に語ってはならないというのだから。そしてネグリにとって、マキァヴェリ、スピノザ、マルクスはまさにそれを実行した人間たちである。

 彼らはどのようにしてそれを実行したとネグリは考えるのか。肝要な点はただ一つ、構成的権力の構成する権能を一〇〇パーセント承認することだけ。構成された権力が、制限を課しつつ効力の限界をもつという意味で有限であるとすれば、どのような構成された権力にも先立つ構成的権力は無限でなければならない。構成された権力が歴史的相対性をもつとすれば、構成的権力は絶対でなければならない。そして構成するという作業は、構成された結果への全員の関与と服従を求めるのだから、本質的に民主的だと考えねばならない(構成は、何よりも超越者からの贈与に対立する)。すなわち、ネグリ的な構成的権力とは、絶対的に無限であると捉えられた民主主義、法や制度など有限なものを生産する存在論的次元としての民主主義である。この民主主義による、この民主主義からの出発、それがネグリ的な構成である。「民主主義的全体性はつねにすでに社会のなかで構成されている」(第一章)。

 とすれば、すぐに疑問が浮かぶだろう。この民主主義が近代の諸々の野蛮を生産してきたとすれば、構成過程は「啓蒙の弁証法」に従うのか。この民主主義の実現が近代史の底流であると考えるなら、ネグリの見方はそれ自体極めて近代的なユートピア思想ではないのか。もちろん、そうではないと彼は答えている。というのも、啓蒙の弁証法にせよ近代的ユートピアにせよ、民主主義が何かに代表されうると考えるのに対し、構成的権力の絶対的民主主義はそもそも代表ということを知らないから。啓蒙の弁証法は民主主義がファシズムに「まずく」代表されてしまうと説き、近代的ユートピアは民主主義とは「うまく」制度化された代表制にほかならないと考える。これに対し絶対的民主主義は、代表制こそ自らを飼い慣らす遡行手続きを可能にする装置だと見なす。代表するものから代表されるものへの遡行として。絶対的民主主義にとって構成過程とは、「暴力と協業のダイナミックな関係」(第六章)以上でも以下でもない。つまりネグリが他のテキストで述べた言葉を用いれば、「たどたどしく歩む実践」でしかありえない。いかにしてこの実践の邪魔をしないか、重要なのは単純であるがむつかしいこの問いを維持し続けることだけである。しかしこの問いを立てたとき、過程はすでに自動的で必然的な弁証法の重圧からも、バラ色であるが永久に訪れない目的の欺瞞からも解放されて、私たちの介入を受け入れる態勢を整えている。