デュルケムと社会主義

斉藤悦則

2003年5月25日,「デュルケムとアソシアシオン」と題して,経済学史学会の全国大会(同志社大学にて)で報告したものを加筆修正した。
2003年9月5日,脱稿。
『日仏社会学会年報』第13号(2003年11月刊行予定)に投稿した。


[Summary]

Emile Durkheim and Socialism

Yoshinori SAITO

Durkheim's concept of "collective force" was profoundly inspired by Proudhon's sociological theory. "Society is not a mere sum of individuals." This is a well-known phrase commonly attributed to Durkheim, however, we can find an almost similar idea in Proudhon's writings, especially in his De la Justice (1858). Although Durkheim had been deeply studying on Proudhon's socialist idea for some time, he was very careful not to state his worship for Proudhon. It seems that he was too close to Proudhon to show his intimacy frankly.

Georges Sorel stands on the other side. Sorel confessed that he was a disciple of Proudhon. In his eyes, Durkheim was a coward, or a sort of deserter. He thought this kind of intellectuals was difficult to deal with. Sometimes they could be the most malicious enemy against socialism.

The apparent enmity between Sorel and Durkheim would be dissolved, if we observe their conceptual similitude about religious phenomenon. Durkheim's sociological concept of "collective effervescence" and Sorel's vital concept of "revolutionary myth", both praised people's irrational action based on their collective conscience. We can say that Durkheim and Sorel had the same root in proudhonien moral socialism.



デュルケムの著『社会主義およびサン・シモン』(以下『社会主義』と略す)は1895〜96年にボルドー大学での講義の原稿を起こしたものである(刊行は1928年)。社会主義の歴史に関するデュルケムの講義は,次年度にフーリエとプルードンを,3年目にはラサールとマルクスを扱う予定であった。しかし,この企ては完遂されず,けっきょくサン・シモンをとりあげた1年間だけで終わった(註1)

『社会主義』が本来の構想のほんの一部しか表現できず,未完に終わったことは,後のデュルケム解釈に大きく響くことになる。社会学史の研究者たちがデュルケムの社会主義観を語るとき,それはもっぱらサン・シモンの産業主義との近さ遠さを論じる類いのものとなってしまった。

一方われわれは,デュルケムが「集合存在」の一種独特(sui generis)な性格に着目し(註2),そしてその道徳的な力に期待を寄せている点において,むしろプルードンとのあいだに強い類縁性を見るのである。

本稿において,われわれはまずデュルケムがプルードンから学び取ったものの大きさを明らかにする。そして,それがデュルケム「独自」の社会主義の形成につながっていく流れを見る。最後に,同じくプルードンを拠り所に社会主義思想を構築したジョルジュ・ソレルがデュルケムをどう批判しているか,その批判の意味を検討する。

[注記]
本文中で,段落をわけてプルードン,デュルケム,ソレルからの引用を示したときは,それぞれ冒頭にゴシックでP,D,Sの略号を付した。書名の略号については「参考文献」を見られたい。引用文の末尾に「頁」とある場合は邦訳の該当頁をさす。

1.プルードンの集合力理論

「全体はその諸々の部分の総和とは異なるある別もの」(Reg. 195: 207頁)とは,俗に,これこそいかにもデュルケム的な言葉とされる。しかし,社会という集合存在の,一種独特の性格をリアルにつかまえようとした点では,デュルケムはプルードンの後続者の一人にすぎない。つまり,この点でデュルケムのオリジナリティを言い立てるべきではない。

プルードンが1846年に書いた『貧困の哲学――経済の矛盾の体系』は,生産力の増進や福祉の向上のための企てが,社会に貧困と悲惨をもたらす皮肉な成り行きを体系的に描き出した。プルードンは,集合存在の独自のメカニズムについての無知が社会の不幸の元凶だと考える。善意の行いでさえ逆に弊害を生む,つまり善が悪を生む,あるいは善が悪に転化する。このメカニズムをとらえるには新しい社会科学が必要である。個別の現象についての観察を積み重ねただけでは全体のメカニズムは見えてこない。個別のものを見るのと同じまなざしで全体を眺めてはならない。これがプルードンの基本的な主張であった。

プルードンは初期の著作,1840年の『所有とは何か』において,アダム・スミスの分業論をヒントに「集合力理論」を作り始めた。集合力 force collective は個々人の力の総和を大きく上回るのに,労働者への成果の還元は「個」の論理にもとづいてなされる。資本家による収奪の秘密はここにある,というのである。経済学のレベルでは素朴な理論だが,それを社会学的な集合存在の理論に高めていったのがプルードンの功績だといえよう。

1858年の大著『正義論』(リヴィエール版で全4巻)では,集合存在の道徳的な力が解明される。プルードンは,集合存在こそが自由であるとして,たとえばその第3巻で次のようにいう。

P「集団が存在すれば必ず,その集団を構成する個々の力とも異なり,それらの総和とも異なる集合力という結果が生じる。……人間の場合,それは自由である。……そして集合力によって,人間はあらゆる内的・外的な宿命から解放され,自らの自律的な生活の主人公となり,神のように絶対となる」(第8研究「良心と自由」第5章「自由の本質とリアリズム」,Jus III 408-409)

社会(集合存在)のメカニズムを科学的に明らかにすることによって人類は解放される,と考える点でプルードンもやはり時代の子ではあった。そして,自由の第一義を人間による自然の征服とする点で,プルードンもサン・シモンの影響下にあったことがわかる。しかし,財(biens=善きもの)の豊富さを幸福の度合いと相関させるサン・シモンと異なり,プルードンが志向するのは物質的な豊かさでなく,自由の獲得によって人間が「気高い」存在になることであった。宿命に翻弄されるのではなく,自分が主人公となって運命を切り開く,そういう人間の「崇高性」,これが自由の本義であった。
プルードンは続けていう。

P「自由の行き着くところ……それは,人類による自然の支配の結果としての普遍的な調和。そこから先は思いも及ばぬ。したがって,最良の意味における正義,これが自由の極地である。そして,両者はついに合体する」(同上第6章「自由の機能」,Jus III 423)
「自由とは何か。それは人間集合の力である。この力によって人間はあらゆる宿命から解放され,事物を従属させ,現実と観念の限界をこえて自らを気高く美しく成長させる」(同上,Jus III 432-433)

われわれにとって興味深いのは,このプルードンの主張をデュルケムが『社会分業論』(1893年)でほとんどそのまま繰り返していることである。その部分を以下に引用しよう。

D「じつは自由それ自体が規制の産物なのである。自由は社会的作用 action sociale の敵であるどころか,その結果なのである。……自由とは自然にたいする社会の征服である。……人間が一個の社会的存在となるかぎりにおいて,自由は少しずつ実現されるにすぎない。ぜなら,人間がもうひとつ別の世界を創造し,それによって自然を支配して,はじめて自然から脱却できるからである。この世界こそ,まさしく社会である。それゆえにもっとも進歩した社会の課題は,正義を創造することであるといってよい」(Div 380-381: 372-373頁)

自由の実現による「正義」の創造を主張するとき,デュルケムは完全にプルードンになりきっているかのようだ。しかし,デュルケムはまさしくこの道徳の領域においてプルードンの乗り越えを企てる。それによってデュルケムの「社会主義」思想は独自の色彩を帯びることになるのである。


2.社会主義の道徳的な力

上述のとおりプルードンの社会主義の理論構築は分業への注目から始まった。デュルケムも,分業を生産力の観点からではなく,道徳の観点から眺め,分業が道徳の進化にはたす役割の大きさに注目した。これによって,かれは自由主義経済学を強く批判する立場を獲得する。さらには,サン・シモンの産業主義も自由主義経済学と同じ錯誤に陥っていると断ずる。

サン・シモンの産業主義についての内在的批判はすでにフーリエがおこなっているが,デュルケムのそれはさらに辛辣である。産業主義は社会に幸せをもたらすどころか,社会を生き地獄に変える,というのだ。生産性の向上,富の増進は人々の物欲をかきたて,焦燥をあおるだけだからである。

1893年の『社会分業論』でデュルケムは,豊かさや変化がけっして幸福にはつながらないことを次のように明言する。

D「くりかえしていえば,そのおかげでわれわれが幸福になるわけではない。……われわれの幸福とは,欲望が刺激されるゆえにこそ大きくなる,というものではない。……われわれにとって,分業が,経済学者たちにとってとはまったく別の様相であらわれるゆえんは,かくのごとくである。経済学者たちにとっては,分業の本質はより多くの生産ということだ。われわれにとっては,より大なる生産性ということは,分業という現象の必然的な一帰結,ひとつの残響にすぎない」(Div 258-259: 264-265頁)

そして,1895〜96年の講義(社会主義論)でのサン・シモン批判も同じトーンで展開される。

D「果てしなき欲求は自己矛盾である。……持っている以上に持つことを絶えず休みなく求めること,次に到達するであろう点を追い抜くだけのために,到達した点を乗り越えんとして働くことは目的といえない。……飽くことをしらぬ渇きは苦痛のもとになるだけである。どんなことをしても,それは決して癒されない」(Soc 223-224: 230頁)
「サン・シモンが見逃したと思われるのは,これである。社会平和を実現する手段は,一方では経済的欲求を一切の制約から解放することであり,他方ではそれらの経済的欲求をかなえることによって満足させることだ,と彼は考える。ところが,そのような企ては相矛盾する」(Soc 225: 232頁)

この無間地獄から脱却するにはどうしたらよいか。デュルケムの回答はきわめて明快である。いわば知足の精神に似た心構えが賞揚される。

D「大多数の人が自分たちの境遇に満足することである。……自分たちはより多く持つ権利をもたないのだと納得することである」。(Soc 226: 233頁)

そのためには「諸個人がその優位性を認め,自発的にそれに従い,自分たちにたいして命令する権利」をもつ集合力 forces collectives,道徳力 force moraleが必要である。今日,その道徳力はどこに存するか。「それは職業集団もしくは同業組合である」(Soc 229: 236頁)

ここから,組織内における自由の極大化をめざす「フーリエ主義およびプルードンの相互主義」にたいしても批判が向けられることになる。デュルケムはこれら「アナーキーな傾向」をもつ社会主義派(Soc 44: 25頁)について,その志を評価しながらも,個性のとらえ方の誤りをつく。

プルードンは『19世紀における革命の一般理念』(1851年)において「最良のアソシアシオン」のあり方をこう説明している。「アソシアシオンはけっして経済力ではない。それはもっぱら一つの精神的絆」である。そして,最良のアソシアシオンとは「団結の利点すべてを失わないようにしながら,結社員が自らの自立性を享受する」もの,「自由が最大で献身が最小」のものでなければならない。このプルードンの言い方では,ふつうのアソシアシオンは各人の自由を損ないがちで,構成員にしばしば自己犠牲を求めるものであるかのようである。つまり,集合性は個性を抑制する,と読めてしまう(Idee 105-106頁)。デュルケムはそのように読み,プルードンのうちに功利主義者と同様の錯誤を認めるのである。

デュルケムによれば,集合生活こそが個性を育む。「分業の本質はこれまで共有だった諸機能をわかちあうことにある」から,集合生活が深まるにつれ機能の専門分化が進行し,ここから各自の個性が育っていく。「個性は社会の産物」であり,「個性は既存の社会環境のなかで彫琢されるのだから,それは必然的にこの社会環境の特徴を帯びる。……個性は集団的秩序から自由でありながら,いぜんとしてこれに順応する」(Div 260-264: 266-269頁)。

1896〜97年の講義(『社会学講義』として刊行)では,職業道徳の形成に触れながら,デュルケムは同業組合の必要性を説く。

すなわち,集団の規律といえばすぐに軍隊的な組織を想起するのは皮相な見方にすぎない。集団の規律とは「同一の対象への共同の愛着を規範の形で表現」したものなのだ。「集合的規律は,各個人の生活だけでなく,かれらの心情にもとづく共同生活の総括であると同時にその条件でもある」。とすれば経済生活においては職業集団こそが個人の成長をささえる最良の道徳的環境ということになる。「私が同業組合体制が必要不可欠だと考えるのは,経済的理由によるのではなく,道徳的理由によるのである。つまり,それだけが経済生活の道徳化を可能にするからである」(Lec 66-67: 62-63頁)。


3.同業組合の機能

デュルケムも自覚しているように,職業集団 groupes professionnelles はよいとしても同業組合 corporations といえば中世ギルドを想起させ,過去への後戻りを求めているかのような誤解をまねきやすい。それでもなおデュルケムがこの用語を好むのは組合 syndicats では集団の機能,すなわち道徳力が十全に発揮されないと思われるからである。『社会分業論』の第2版序文(1902年)はそれを説明する。

デュルケムはいう。「雇主と労働者とは……それぞれその力に優劣こそあれ,自立的な二つの国家と同じ状況なのだ」。そこにおける「闘争を解決するのは,つねに弱肉強食の法則であって,戦闘状態は完全に生きつづける」(Div VII 6頁)。いずれの側においても,組合は「私的な結合であって,法的権威もなければ,どんな規制力もない」(Div VII: 5頁)ためにこういうことが起こる。したがって,同一職業内の諸個人によって形成される集団を,公的に制度化する必要がある。「ひとたび集団が形成されるや,そこから道徳生活が姿をあらわしてくる」(Div XVI: 12頁)。職業集団をつくれば,いわば事物の力により必然的に徳化,すなわち一般的利害にたいする個別利害の従属がすすむはずだ。

さらに同業組合は,家族も地域社会も宗教社会も及ばぬ重要な機能をはたす。それは国家と個人のあいだに介在する第二次的集団として,国家の権力から個人を守る。この第二次的集団としては同業組合ほど適したものはない。それは個人の近くに存在し,経済生活で個人のあらゆる要求を感じとり,少なくとも家族と同じ永続性をもっているからである(Div XXXVI: 27頁)。

デュルケムは,外面的な進歩や繁栄のかげで人々の心が蝕まれている現在の状態を,まさしく「病弊」ととらえる。進歩を善とし,物質的な豊かさを幸福と結びつける風潮にたいし,デュルケムはアノミーという概念を用いてその虚妄をつく。1897年の『自殺論』の「アノミー的自殺」の章は,欲望の肥大化に歯止めをかけるものがなく,あきらめることが許されなくなった社会での生きづらさを繰り返し語る。

D「万国博覧会[の成功]は……社会の繁栄を増すとされている。……しかし,自殺率の著しい増加によって,その成功がけっきょくは帳消しにされてしまう……。それはとくに1878年の博覧会のさいに起こったようにみえたことである」(Sui 268-269: 297頁)
「貧困が自殺を防止する。……貧しければ貧しいほど,それだけ人は,自分の欲求の範囲を際限もなくひろげようとはしないものである。……反対に,豊かさは,それが与える力から,自分の力でなんでもできるという幻想をいだかせる」(Sui 282: 312頁)
「人びとをとらえる狂気じみた焦燥は,あきらめとはほど遠い感情である。……社会はそれに慣れてしまい,むしろ常態とみなす習わしになっている。……ともかく進歩を,それも可能なかぎり急速な進歩を強調する説が,ひとつの信仰箇条となってしまった」(Sui 286: 317頁)

『自殺論』の末尾で示される「実践的な結論」も同業組合の必要性である。デュルケムは,社会の「病弊」を除くためにぜひとも同業組合の再建が必要だと訴える。

D「事実,アノミーは,社会のある部分において,集合的な力,すなわち社会生活を規制すべく構成された集団の欠如が起こることによって生まれる。……同業組合のおもな役割は……社会的機能,わけても経済的機能に規制をくわえ,要するに現におちいっている無秩序状態からそれらを脱却させることにある」(Sui 440: 491頁)。

しかし,この主張はたしかに資本家と労働者の協調を呼びかけているように読めてしまう。労働運動の側から厳しく批判されたのは当然である。デュルケムはブルジョワ側にくみする者とみなされ,保守主義者あるいは反動と規定された。ジョルジュ・ソレルもデュルケムを「社会主義の最大の敵」(TD 2)というが,その手ごわさにたいしては畏敬の念も示す。したがって,ソレルによるデュルケム評は多少屈折したものとなる。


4.ソレルのデュルケム批判

ソレルは1892年に44才で土木局をやめてからパリに住む。ソルボンヌに出入りして,当時流行しはじめた「社会学」の知識吸収にいそしんでいるから,1893年にそこで開かれたデュルケムの学位論文『社会分業論』の公開審査も傍聴しただろう(Portis 1982: 12)。そして,1895年にデュルケムの『社会学的方法の規準』が出るやすぐさま批判論文「デュルケム氏の諸理論」を書く。社会主義評論誌『社会生成』創刊号(1895年4月)の巻頭に掲載される。(同年の5月号に後半部が掲載)

この論文で,ソレルはまずデュルケムがかなりの難敵であることを正直に認める。ソレルはデュルケムを評して,自由主義経済学の強烈な批判者であること,きわめて進歩的な精神で問題にアプローチしていること,公正な経済とともに人々の知的成長と道徳の向上を求めていること,などを挙げる。デュルケムは「たぐいまれな英知をそなえる思索者であると同時に,闘うために完全武装した学者」(TD 2)と見なされる。

世間的・通俗的には,こけおどしのビッグワードを連ねたり,あれこれ数字を並べると,いかにも科学っぽく見える。内容が理解しがたく,わかりにくいほど,ありがたがられる。しかし,デュルケムはこうしたまがいものの科学とまったく無縁の人である,とソレルはいう。これはほとんど讃辞に近い。

スペンサーが子どもじみた仮説を唱えるのにたいし,デュルケムの理論はまさしく現実に立脚している,とまでいう。ところが,その現実の分析から,本当ならばいやおうなしに社会闘争の重要性が見えてくるはずなのに,なぜかデュルケムはここへ来ると掘り下げが弱くなる。すなわち,分業の理論から階級の理論が出てこない。それがソレルによる第一の批判点となる。

ソレルは『規準』から次の個所を引用する。「社会の密度の増大による闘争 la lutte のいっそうの激化のため,専門化されていない職務に依然としてたずさわっていた個人がこれに生き残ることがいよいよ困難になったという事実」(Reg. 186: 193頁。ちなみに,この文中の「闘争」は宮島喬訳では「競争」)。しかし,とソレルは反駁する。闘争の激化は社会の密度が増大したことの結果なのであろうか。

S「社会主義はこのプロセスの研究に,社会学者たち les sociologistes がシステマチックに黙殺しているひとつのファクターをもちこむ。すなわち,分業と階級分化の不可分性である。階級は闘争のために形成され,デュルケム氏が語るものとはまったく異なる力を分業にもたらし,分業のあり方に大きな影響をおよぼす。われわれは,階級闘争の理論によって本当の歴史のプロセスをたどることができるのである。その点,デュルケム氏の説は図式的で単なる理屈にすぎない」(TD 24)

デュルケムは当時盛り上がり始めた労働組合の運動(サンディカリスムの胚胎)に期待せず,むしろ否定的な立場をとった。目標をかかげて前進するという闘争の図柄に賛同できないからである。デュルケムはいう。「歴史は明瞭にあるいは漠然と感じられている目的をめざして発達をとげる,というの[……]は事実に反している」(Reg. 187: 195頁)。社会の変動を諸個人の意欲とか欲望によって説明してはならない。「社会学は,たんなる心理学の系ではないのである」(Reg. 194: 205頁)
ソレルはここで猛反発する。

S「社会主義者が目的を掲げるとき,あれこれの幻想にも,集団精神の叫びにも,その他,社会学的なたわごとにも無縁でいられるのは,階級の理論のおかげである。具体的な社会生活のなかで活動する集団としてまとまっている生身の人間,社会主義者の関心はここにある。社会主義者はそこから心理学研究にも新しい道を開き,さらにはこれが社会学研究に大きな貢献をもたらす。[……]こうして正しいポジションをえた心理学は,社会学をより説得力のあるものにする材料の供給源となる」(TD 24)

ここから批判の第二点に移る。それは,デュルケムにあっては人間の意志の力が認められていない点である。たしかにデュルケムはいう:「社会的事実の決定原因は,個人意識の諸状態ではなく,それに先立って存在していた社会的事実のうちに探求されなければならない」(R夙 202: 218頁)。

ソレルは反発する。いわく,観念の力をバカにしてはいけない。人権の思想がよい例だ。人権はひとつの仮説にすぎないのに,多くの人がそれを信じれば現実において強大な力を発揮してきたではないか(TD 162)。

S「われわれが社会科学に求めるべきは,革命的な勢力の進化とその強大さをわれわれに認識させてくれることである。かつては,科学的な理論に敬意が払われ,ひとびとは未来についての科学的な仮説を求めた。われわれは違う。われわれが描きうる未来像は《不確定な》ものでしかない。それも芸術家のイマジネーションでしか語りえないものなのである」(TD 163)
「われわれは現在についての厳密な認識を追求するが,未来についてはそれを科学的な体裁で扱うのを拒否する。[……]これが唯物論的な社会学理論の結論である」(ibid.)

社会革命をひとつのポエジーと見,革命の未来像を具体的に描くことを戒めたのは,共産主義者マルクスにほかならない。ソレルはマルクスのそうした言葉を引用しつつ,人間の意志の力を賞揚した。ソレルは1908年の『暴力論』で,自説をさらに発展させ,革命的な個人主義にまで近づく。

S「戦いは,自己の情熱のうちから自己の行為の動機をくみだす個人によって遂行される,英雄的武勲の積み重ね」(RV 372:下164頁)。
「総罷業 la greve generale に熱中した労働者集団……は,実際,革命を,人々がなお個人主義的と称しうる一つの巨大な蜂起と想定する」(RV 374-375:下167頁)。


5.デュルケムとソレルの近さ

たしかに,階級理論や心理学批判の点で,ソレルとデュルケムは正反対の立場のように見える。しかし,それぞれの社会学の鍵概念,すなわちソレルにおける「神話」mytheとデュルケムにおける「集合的沸騰」effervescence collectiveでとらえなおすと,両者の見かけ上の矛盾は解消する。

ここではまずソレルの「神話」から見ていこう。ソレルは『暴力論』の序文で,「神話」をこう定義する。

S「諸々の大社会運動に参加する人々は,彼らの将来の行動をば彼らの主張の勝利を確保する戦いという形象 image の形で心に描いている……。私はこれらの構図 construction を神話と呼ぶ」(RV 34:上48頁)

さらにソレルはプルードンを引用しつつ,人間の尊厳を断固として防衛すべく覚悟すること,そこにこそ正義がある,といい,人を闘争へとつきうごかすのは科学あるいは理性でなく,道徳的な確信だ,という。

S「神話は,じっさい,ある集団の信念に一致しているものであり,……それは論駁され得ないものである」(RV 46-47:上63-63頁)

迫害者に対する殉教者の闘いを例に,「この道徳的な確信は……人間たちがそれに参加することをうけいれる,そして確実な神話として表現される,ある戦時状態に依存する」(RV 319:下110頁)と説明する。

すなわち,最高の理想のための闘争へ非打算的に身を投じること,これこそが最も崇高な営みであり,生きるにあたいすることがらなのである。

抑圧された階級であるプロレタリアートは,ゼネラル・ストライキ(いわゆるゼネスト,総罷業)によって自らの存在価値を表現するばかりでなく,集団の闘争をとおして自らを成長させ,社会そのものを倫理的に高め,生きるにあたいする美しいものに変える。ソレルはゼネストの「神話」について,こう解説している。

S「罷業は,プロレタリアートのうちに,彼らのもつ最も高貴な,最も深刻な,そして最も動的な感情を発生させた。……われわれは,こうして,言語が完全に明確に伝え得ない,あの社会主義の直感を獲得する」(RV 182:上204頁)

ソレルは総罷業を唱える革命的サンディカリスムのなかに「大きな教育力」(RV 377:下169頁)を見る。

デュルケムも同じく,集合性がもたらす倫理の高揚に注目しながら,それを説明するさいに「集合的沸騰」という概念を用いる。デュルケムも社会の凝集力を宗教的な現象と見,『宗教生活の原初形態』(1912年)で「集合的沸騰」をこう説明する。

D「ひとたび諸個人が集合すると,その接近から一種の電力が放たれ,これがただちに彼らを異常な激動の段階へ移すのである」(For 380:上389頁)

集合生活に入った個人は,そのなかで集合的理想を学びとり,「崇高」なものをめざす欲求を我がものとする。デュルケムはすでに(1890年代の終わり頃の社会学講義のなかで)「社会生活とは,何よりも同一の目的に向かう人びとの努力が調和する共同態 communaute,精神と意志の融合態 communion である」(Lec 55: 50頁)と述べている。また,われわれは彼がソレルの「神話」概念から何かを学んだという証拠を示すこともできない(註3)。したがって,デュルケムの「集合的沸騰」の概念は彼の学説の内的な発展の成果にほかならないともいえよう。われわれは,それぞれの概念を眺めれば,両者のあいだに隔たりよりもむしろ類縁性を強く感じるのである。

『原初形態』の結論の部分で,デュルケムは人が非合理性につき動かされること,非合理的なるがゆえ活動の躍動感,そうしたものの大切さを認めている。

D「信仰とは,何にもまして,行動しようとする飛躍であり,しかも,科学はどれほど押し進められても,常に行動からは離れている……。科学は断片的で,不完全である。……ところが,生活は待っていることができない」(Lec 715: 348頁)

しかも,デュルケムは,「集合的理想が個人のうちに化身して,個人化し……自律的な活動の源泉となる」(For 704:下335頁)とまで述べるにいたる。もちろん,デュルケムは個人がいだく理想もじつは集合生活のなかで育まれたものであるとして,個性が集合性からの産物であることを一貫して強調してはいる。しかし,個性が集合性を脱して自律的な活動を始めることを認めるとき,デュルケムはソレルが『暴力論』で主張した個人主義的な社会主義のごく間近なところにいる。もはや両者の隔たりはほとんどないとさえいえよう。

じっさい,ソレルによる「デュルケム批判」の結論は,デュルケムの胆力の欠如を嘆くというものであった。進むべき道の半ばで立ち止まり,あえて先に進もうとしないことへのいらだち,強力な味方になるべき者が敵方に与しようとしていることへの反感が行間にあふれている。少し長いが,その結論部分を最後に引用して,本稿をしめくくりたい。

S「デュルケム……は研究をおしすすめ,社会主義に入り込むギリギリのところまで来てしまった。私が思うに,彼は自分の大胆さに何度もおびえ,そのまままっすぐ進めば,自分の考えをきちんと形にできたはずなのに,そうしなかった。
はたしてデュルケムはそれまでの自分の立場を乗り越えようとするだろうか。もし,そうすれば,いやでもマルクスから階級の概念を借用せざるをえまい。そして,おそらくそのとき彼は,彼とわれわれとを分かつ境界線を完全に踏み越えてしまうだろう。社会哲学にとっては幸せなことである。私はまっさきに彼を先生と呼んで歓迎しよう。マルクスの理論を高等教育の場できちんと論じられるような学者は彼以外にはいない。なぜなら,彼のみが,歴史の変動のなかに科学的な法則と変化の物質的な条件をつかみとれる哲学的素養としっかりした批判精神をそなえた,唯一のフランス人社会学者だからである」(TD 179-180)


  1. 1896年からの講義は「習俗と法の物理学」と題して行われるが,1950年にようやく刊行されたその講義録『社会学講義』を読むと,その主眼は自由主義経済学批判である。[戻る]
  2. 宮島喬[1987 : 7]によれば,「原子論的な方法的個人主義を批判し,諸要素の結合から生じる一種独特な sui generis な属性(今日のタームでいえば創発的特性と等価であろう)に注目し,これを組織的に考察していること」は,「デュルケムが当時の社会学理論のパラダイム革新の流れにたいして行った独自の寄与」のひとつである。
    また,Keith SAWYER[2002]はデュルケムをことさら創発特性の理論家として強調してみせる。[戻る]
  3. 註3)デュルケムが1897年7月15日付でモースにあてた書簡には,「ソレルからまったくバカげた手紙をもらった」(Let 78)とある。このモースは,ソレルの編集する雑誌『社会生成』(1895年の創刊号の巻頭論文がソレルのデュルケム批判である)に,しばらく関わっており,書評などを寄せている(これについては,Let 63 の注を見よ)。したがって,デュルケムはソレルによる批判論文を読んでいる,と推察することはできる。[戻る]

参考文献
プルードン,デュルケム,ソレルからの引用には以下の略号を用いた。

PROUDHON, Pierre-Joseph

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    Systeme des contradictions Economiques, ou Philosophie de la misere
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    Idee generale de la revolution dans la 19e siecle
    . (1851), Geneve, Slatkine,, 1982. 陸井四郎他訳『19世紀における革命の一般理念』,三一書房,1971年。
  • Jus III
    De la Justice dans la Revolution et dans l'Eglise
    (1858), t. 3, Geneve, Slatkine,, 1982.

DURKHEIM, Emile

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    De la division du travail social
    (1893), PUF, 1998. 田原音和訳『社会分業論』,青木書店,1971年。
  • Reg
    Les regles de la methode sociologique
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  • Sui
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