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『商経論叢』(鹿児島県立短大)第36号 1988年3月,pp.43〜60
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斉藤悦則
本稿はプルードンの集合力理論と家族論とのつながりを考察する。 たしかにプルードンの家族論はアンチ・フェミニスト的性格が強烈なため,われわれが男女平等の立場に立とうとすると,これを積極的に論じることとの折り合いがなかなか難しいもののように見える。しかし,人間の集合体がもつ独自の性格をリアルに把握し,そうした現実的なものから遊離しないで未来社会を展望しようとしたプルードンのもくろみの中に彼の家族論を位置づけるならば,単にフェミニスト的でないと烙印をおすだけではすまない何かが見えてくるかもしれない。 そこでまずプルードンの社会理論の基本的命題を確認しておこう。それは次のように要約される。「社会はその構成部分である人間と同じように現実的な存在である。人々によって構成されていながら,個としての人間とは異質のこの存在には,独自の生命・力・属性・理性・意識・情念が備わっている」1)。人間の集合体は集合存在として固有の法則をもっているのに,それが把握されずにいると矛盾に陥ることになる。 こうした考えにもとづいて書かれたのが『経済的諸矛盾の体系』(1846年)であった。分業にせよ所有にせよ,いずれの経済的カテゴリー(プルードンの用語で言えば「経済力」force economique)も本来は人類の福祉増進のために機能するはずのものであるのに,歪んだ論理の下に機能させられて,逆に悪弊・矛盾を生み出している。すなわち,集合力がもたらす成果が個の論理によって纂奪されていることによって,現実の社会的諸矛盾の体系は形成されていると言うのである。 ことは経済のメカニズムには限らない。いずれの社会的制度も,その出自においては,正機能を果たすべきものとして現れた。その限りで,現実的なものは合理的なものであった。ところが,制度はいったん出来上がると一人歩きを始める。制度はそれを育んだ社会的連関を離脱し,権力者に成り上がった者の私的裁量によって運営されるにいたる。個の論理だけが横行し,もともと背後にあった集の論理は浮上するはずもない。制度は集の論理(集合存在の論理)に支えられてはじめて正機能を果たすのであるから,それを離れて個の論理によるならば負の機能をもつにいたるのは当然である。プルードンは社会的諸矛盾の秘密をこう考えた2)。 家族という制度,結婚という制度についても事情は同様である。プルードンの見るところ,今や結婚・家族は本来そうあるはずのもの,そうあるべきものから離反し,危機に瀕している。この危機をもたらしているのは,一つは家族を個人に解体しようとする考え方であり,一つは家族を肥大化させて,国家・協同体を一つの家族のように見なす考え方だというのである。そして,プルードンの考えによれば,両者は集合存在の論理を知らず,結局は個の論理に縛られているがゆえにリアリティを欠如している点で通底する。
アンチ・フェミニズム,アンチ・コミュニズム プルードンが,女は男に比べて体力・知性・徳性の面でそれぞれ2/3だから,合わせると8:27の割合で劣っている,と述べたのは1858年の大著『教会と革命における正義』(以下,『正義』と略する)であった。プルードンのこの有名な女性蔑視的発言に対し,フェミニストの側からの猛反発が起こったのは当然である3)。 たとえば,プルードンの同郷人ジェニー・デリクールは同年『哲学評論』誌で反論を始め,1860年に『解放された女性』を著し,ジュリエット・ランベールは翌1861年に『反プルードン考』を出版した。そして,プルードンはこの二人に対する反論『娼婦政治』を準備するのだが,その出版は死後の1875年であった。 その中で彼は,彼女らフェミニストたちは社会名目論者と同じ過ちに陥っている,と断ずる4)。 ノミナリスト的な視点,すなわち,社会とは単なる名称にすぎず,現実に存在しているのは一人ひとりの個人であるという視点から彼女らは現実の諸矛盾を撃とうとする。フェミニストによれば,家族とは単なる個人の集まる場にすぎず,個を超えた何ものかだというのは虚構(フィクション)なのだ。こうしてフェミニストは個としての人間の全き自由を獲得しようとするが,家族あるいは社会をバラバラの個人に解体して得られるのは「アナーキー」でしかない。「しかし,アナーキーはその本性上ことをなすのが難しいものであるから,これらノミナリストはどうしても力に頼らざるをえなくなる」5)。つまり,集合存在の自立能力が見逃され,バラバラの個人どうしが対立しあう状況の中では関係を制御するのはただ力だけに期待される。彼らは現実の悪弊に打撃を与えているつもりで,実は自らの理念(自由と平等)そのものを否認しているのである。 社会は個人の集まり以上の何ものかである,という視点の方が現実的であるのに,単純な平等主義者は個にこだわり,結局は資本主義の論理にからめとられてしまう。集合存在は構成部分間の対立と同時に均衡もその内的原理として持つのに,力の論理によって制御されている関係には対立しか存在しない。その行きつく先は専制でしかない。「開化した社会ではなくて,強奪の横行する社会か,さもなくば一層忌まわしい隷属を強いる社会である」6)。 では,家族を肥大化させる考えはどうか。 カべ一などの共産主義がそれである。共産主義者は社会(あるいは国家)を一つの大きな家族とみなし,それこそがすべてで,個人はゼロだと考える。それでこそ社会全体の友愛・調和が保たれるというのである。私的所有の体制の諸矛盾・悪弊を一掃するために,個(個人の自由)を否定し,調和のとれた集団のモデルを家族に求めて,それを一挙に国家レベルにまで拡大する7)。彼らが女性(妻)の共有まで主張するにいたったのも決して不思議なことではない。国家がすなわち一大家族であり,そこでは愛とよばれる自己献身が賞揚されて,個々人はおろか個々の家族の自立性は「わたくしごと」として否定される。家族愛は公のために私を滅するイメージでとらえられていたのである8)。 プルードンが集合存在の理論で言おうとしたのは,こうした個の否定ではない。なるほど,集合存在はわれわれでありながら,われわれを超えた何ものかである。しかし,それは依然として「われわれ自身」なのであり,したがって論の眼目は「われわれ」なる集合存在が「われわれ自身」を遊離しようとするのを捉えかえすことにある。 共産主義(共有制)は私的所有のアンチテーゼであり,その限りで正しい集合力理論とその適用への道すじにあった。しかし,単なる一義的反発にとどまってしまった。集合存在にのみ人格を与え,個を否定して,私的所有の体制を逆転させるつもりでいるが,実はこの集合存在(国家)が一個唯一の所有者となって集合力の成果を吸い取るのである9)。 つまり,私的所有の体制において幾多の資本家がやっていることを,ここでは国家が行うにすぎない。それは頂点に達した独占体制である。私的所有の論理は乗り越えられていない。共産主義は集の論理のように見えながら,実は個の論理の中にとどまっている。そして,ここでも論の行きつく先は専制である。
個と共同性 個(propreなもの=propriete)にこだわっても,共同性(communなもの=communaute)にこだわっても,われわれは専制にいたる10)。目指すべきは個と共同性との間の自由な往来である。問題は二者択一の形で設定されているのではない。プルードンに言わせれば,人間は個として自由の主体であるが,同時に集合体の一部分としてはじめて存在理由を得るものなのである11)。人間は個にして集なる存在であり,そうした両側面を見渡す視点がなければ社会のリアルな把握もできない。リアルな把握がな廿れば,社会変革の見取り図は虚妄のままであり,どれほど自由と平等の志向を声高に言い立てても達成は不可能である。 問題は集合としての人間(社会)の固有の性格をとらえそこなったことにあった。ノミナリストはもともと社会を無と見なしたし,共産主義者たち中央集権論者は個を無に帰し,社会(国家)にのみ人格を与えて,結局はそこに個の論理をアナロジカルに適用したにすぎない。集団は個の論理を拡大適用するだけでは捉えられない独自の性格を有する。集合存在の独自性というのは,そこで個と個がぶつかりあいながら調和していくというダイナミズムにあった。そしてそれは,すでに述べたとおり,個の集まりでありながら,個に還元できない,単なる総和以上の何ものかになっていることを意味する。そうした集合存在の独自性をもたらす内的原理をプルードンは求めたのである。その内的原理は対立と均衡であった。 存在を構成する部分が互いに異質のまま対立しあい,対立しながら均衡する――こうした対立をはらむ均衡がプルードンのいう「正義」なのである。個相互の異質性を前提としながら,集合存在はまとまりのある一全体としてあらわれる。基本にあるのは対立し均衡する「対」であり,そうした「対」の系列的連鎖が全体を形づくっている。 こうした形での個と共同性の結びあいにプルードンは注目するのである。個と個が互いに異質なものとして対立しあうからこそ,そこに動き(運動)があり,輝きがある。系列的な均衡のあげくに一全体が成立するからこそ,共同性が強権性を帯びないものとなりうる。個の自由を言いたてて共同性を無視すれば,それは単なるエゴイズムにすぎず,不毛な対立だけが待ちうける。共同性のために個を無視すれば,そこで得られる安定は単なる不活性の別称にすぎず,やはり不毛だ12)。それらはすべて集合存在の論理についての無知,あるいはそれからの逸脱に由来する。プルードンがこの論理にそって展望する社会とは,言わば各人がおのれの欲するところに従って矩を越えない社会である。個がその全き自由を保持しながら,なおバランスのよい共同性が実現される。 このことはただちに家族という集合存在にも適用できる。いや,プルードンの叙述にそって言うならば,われわれは家族を身近なものとして知っているからこそ,個と共同性の結びあいのイメージを容易に獲得しうるのである。家族において人は「正義」を具体的に学ぶのである13)。 個と集団の望ましい結びつきのありようを,プルードンは家族をモデルとして説明する。それは1858年の大著『教会と革命における正義』の第11研究「愛と結婚」および第12研究「愛と結婚(続)」に特にくわしくあらわれる。 人がその全き自由を保持し行使しながら,なお全体のバランスを壊乱しないあり方をさすのに彼は「正義」という語を用いた。これは明らかに関係をあらわす概念である。自由が基本的に個体において体現されるのに対し,正義を体現する基本的な単位は「対」である14)。平等を言いたてる者はここでA=Aの関係を要求しがちであるが,同質のものから成る集まりは有機的な全体を構成しえない。同質性や画一性に根差した社会は蜂や蟻の集団にも似た共有制でしかない。また,力量を等しくする者同士の間では反目や敵対が生ずるのが普通である。敬愛や献身は生まれがたく,友好な関係は育ちにくい。したがって,正義を実現するのは,「対」は「対」でも差異のある者同士の「対」でなければならない。差異こそが大事なのである。 家族という集団を見れば,それが以上の条件を満たしていることに気づく。それを構成するメンバーは性も違えば年令も異なる。考え方や感じ方さえ異なっていよう。それでいながら,と言うより,そうした違いがあるからこそ「いっそう親しみは増し,敬愛の情が感じとられ,共感も強まって,正義の感情がいっそう際立ってくる」15)。異質の者同士の集まりであり,メンバーのそれぞれが自由に個性を発揮していながら,他者に対する敬意や配慮が自然発生的に生じ,敬愛の感情がみなぎって,一つのまとまりある全体を形づくる。プルードンが考えるに,およそ人間の集団(集合存在)はすべてそういう傾向を内包しているのに,そうした内的原理(法則)が踏みにじられて,正しい方向へ機能していない。唯一,家族だけが集合の論理にそって機能する実在的なモデルとしてわれわれの目の前にある。
結婚・家族・市民社会 人がエゴイズム(個の論理)から脱却して「正義」(集の論理)へいたる道筋を,プルードンは結婚→家族→市民社会として提示する16)。 人が「正義」の概念を得るには,まず「他者」の存在を必要とする。そして,その「他者」はすでに見たように「我」と異質のものでなけれぱならない。プルードン研究者オプマンは言う。「他者の尊重,相互性のセンス,対話のセンス,こうしたものを人をうちに生起させるには,感情の起伏のようなものが不可欠だと彼〔プルードン〕には思われた。そして,まさしく性の差がこうした必要に応える」17)。性差は異質性の最良のケースである。「他者」とのかかわりあいの最も複雑微妙な問題を,われわれは男女関係から学ぴとることができると言うのである。 「正義には,傾向も異なれば性格も対立し,相互に異質で相互に補完的な二個人から成る二元性が必要である。父と子,……さらには夫婦という対がその好例である」18)。「アンドロジン」は男女の結合体であり,最小の集合である二者から成りながら一個独自の性格を帯びる。「アンドロジン」と化した「対」が「正義」の体現者であり19),「形を成した正義」une Justice organisee なのである20)。「もし二人があらゆる点で平等ならば,こうしたアンドロジンは存在すまい」21)。 プルードンからの引用を続けよう。「結婚とは異質な二要素の結合である。……男と女は一個の有機的な全体を形づくる。……それは二人の人間から成る一人の人間,二つの知性と二つの意志をもった一つの魂である」22)。こうしたあり方が人間に成長 perfectionnement をもたらす。二人の「心が一つ」になっているからこそ,思いやりが生まれ,献身が苦痛ではなくなる23)。結婚の「非解消性」は強制ではなくて,このあり方からの当然の帰結なのである。愛が愛と,自由が自由と交換される関係の中で人は他者の人生をも「わがもの」として生きる。醜くなったから,衰えたから,力がなくなったから相手を換えるなどということは,この関係から本来でてくるわけもない。「いったん正義に染まった者に後退はない」24)。退廃は愛が快楽と入れ換わったところから始まる。快楽のみ唯一のきずなとする関係において,他者は快楽をもたらす道具にすぎず,人格としてはとらえられることがない。「そう。ちょうど私が酒や魚など私に喜びをもたらしてくれるものを愛するように。だけど,人格については何も感じない」25)。したがって,孤立した人間同士が互いに快を求めて関わりあうような結びつきは不毛である。「正義」の観念は人格と人格の持続的な交流から生まれてくる。「私は魂を高まらせるような愛だけを評価する」26)。 なるほど,集合存在の最小のものである「結婚」(夫婦という対)が即自的に「集の論理」を人にもたらすわけではない。「私的所有の体制」の論理の枠ぐみの中で生きていると,愛の「理想的な」あり方をつかみとるのは難しい。しかし,愛あるいは結婚の理念は現実と無縁のところに漂っているのではない。それは人間の集合が集合として自立するとき,その内的な論理,すなわち「本来そうあるはずのもの」として既にセットされている,とプルードンは考える。彼はこれを「集合的本能」と呼ぴ,理念が現実に内在するという自分の考え方を「理念=現実論」(イデオ・レアリスム)と称した。したがって,本来,結婚生活は愛を衰えさせるようなものではない。むしろ,結婚生活にこそ愛を活性化するチャンスがある,と言うのである。「男であれ女であれ,人は婚外恋愛よりも結婚において愛してこそ,相手にとってより良く,より美しい者として現れてこよう」27)。 さて,「正義」へいたる系列的発展の第二段階は「家族」である28)。それは性差にもとづく対(夫婦)が生殖によって自然にもたらす関係の複合化・高次化である。ここでは性差ばかりでなく,世代の差も生じてくる。子どもや老人も含んで成立する新たな集合存在のなかで,差異をはらんだ連帯のあり方も当然高次化する。 結婚によって「対」となった男女は協力しあって「人類」の「再生産という作業」を営むのであるが29),こうして子どもをもうけることによって彼らは父・母という新しい役割を得る30)。 こうした「家族」という枠組みが「正義」へむけての徳性の向上に必要なのだ,とプルードンは考える。家族の中で生じる徳性の第一は「権威」である。子どもは父の権威を感得して,自分に上位する何ものかの存在を知り,謙虚さや畏敬する心を身につける31)。しかし,権威は父親にとってより重要なものである。人は子どもという無力な存在の前に「権威」の体現者として自分が現れて「義務」の観念より痛切に感じとる。それと同時に自己の尊厳と責任をも自覚する。その意味で「父親となることは徳の面での決定的瞬間なのである」32)。子どもを得てはじめて人は自らの存在の証を得るし,自分が死んでもなお存続する何ものかを確信する。自己を超えてなお揺るぎない生命の流れ,個を超えてなお個にとっての強烈な関心事である存在,こうしたものを人の親となってはじめて生々しく知ることができる。これは官能主義者やプラトニック・ラブを賞揚する者が決して知ることのない高貴な感情である。こうして人はそれと自覚しないで,集合存在の内的原理である「正義」の感覚をわがものにしていく。 母親となった女性はその属性である「優しさ」を十全に発揮する。男女の対比においては,父親に「権威」,母親に「優しさ」が対応させられるが,しかし,親子の関係でいえば広い意味での「権威」は彼女にも属する。つまり,子どもをもうけることによって女性が「正義」の感覚に接近していく事情は男の場合と同様である。「こうした聖なる義務の完遂において,男が自らの高貴さを感じずにいられるであろうか。女が輝かずにいられるであろうか」33)。 「権威」の存在は当然ヒエラルキー的構図を作り出す。しかし,それは子どもが幼ない間に限られるのであり,しかもそれは先に述べた「正義」の感覚の産出にかかわる限りのことである点に注意しておかねばなるまい。プルードンは言う。「父親や母親への子どもの従属は……家族内のヒエラルキーを作り出す。しかし,それは次第に脆弱化するものだし,親が死んだ後は兄弟間の平等の中で解消するものなのである。……父親はいつの日か息子の最良の友とならねばならない。だが,急ぎすぎてはいけない。……父親が成人した息子から友情を受け取れるようになる最も確かな保証は,息子が彼を尊敬している期間をできるだけ長くすることなのだから」34)。 こうした「家族」が「共和制の胚珠である。そこでは平等が父親・母親の……ヒエラルシックな権威の下で芽を吹きはじめている」35)。しかし,「家族」という枠ぐみには限界がある,とプルードンは論をすすめる。すなわち,それが「正義」の感覚を活性化させるのは,父親の権威とか子どもの信頼とかに支えられている間に限られる。日常性はこれらを単なる惰性に変える。異質なるものの相互のぶつかりあいから生じたものが,日々の穏やかな流れの中で消え去ろうとする。異質性の最も顕著な例であった性の違いさえ家族の中では希薄化する。すべてが穏やかで,お互いが空気のような存在となる。「性格・ものの考え方・行動のしかた・気質が互いに似ていると,心がたぎることもなく,相手に引きつけられるようなこともない。……愛というものが生まれてくるには,家族生活からは排除されている意外性 surprises,相違性 contrastes,ある種の奇抜性 etrangete が必要である」36)。「家族」という枠の中にとどまっていたのでは,「正義」は消滅の危機にさらされる。異質なもののぷつかりあいと均衡にこそ意味があったのに,そこでは共通性の肥大化と緊張感のゆるみが生じやすい。「家族」というものの組成のあり方から,それはそうした相矛盾する二つの傾向を内包しているのである。 「家族」の枠を超えた人の交流によって,人はよりいきいきと生きるようになる。したがって,「正義」へいたるプロセスの次のステップには「家族」同士の交じり合いがくる。これが「市民社会の初源であり,社会契約の真の基礎である。市民社会にいたって,正義につながる組織はその最後の発展をとげる。このように,夫婦という対・家族・市民社会が正義確立への三段階をなしている。その第一のものが他の二つに原理と支えを提供している」37)。「結婚の延長上にある家族は正義確立の手段を発展させるものにほかならなず,複数の家族の交じり合いによって形成される市民社会はそれを更に高度のレベルで再生産する。結婚・家族・市民社会は単一にして同一の器官なのである」38)。 このように「対」の原理は,集合存在の単純なものから複雑なものへと系列的発展をとげて,市民社会レベルにいたっても,やはり等しく機能する。すなわち,個が相互の異質性のゆえに徹底して個としての主体性を保持しながら,集の論理に従属する。この従属は自己を空しくすることではない。個はすべてを投げだしながら,すべてを受けとるためにそうするのである。このことを人は結婚・家族生活の中でわれしらずのうちに学びとる。そこで学びとられた資質・徳性が市民社会の中で展開されるとき,この社会では個と共同性の本来的な結びつきが実現されるであろう。そういう意味でプルードンは「家族」と「社会」が系列的に連鎖することを主張したのである。
家族の退廃 家族についてのプルードンの発言をあれこれの著作から抜きだしてみると,彼は一方で家族を「この小国家」と呼んでみたり39),他方では「文明がもたらす進歩は家族と国家の同一視に対する反証となる」40)と述べたりして,一見矛盾する。なるほど,彼が1843年の『人類における秩序の創造』で述べている「家族は人民を構成する要素であるが,国家を成す系列的な単位ではない。この単位は仕事場である」41)という考えはその後何度もくりかえされる主張である。古代の社会封建制社会はすべて家族をモデルとして形づくられているが,近代の民主主義はまさにそうしたものに反逆する,と言う。家族を社会のひな型とするのが君主制であり,絶対王制である。共産主義者が社会を一つの大家族のように構成しようとしても,その行きつく先は専制でしかない。このようなプルードンの主張と,われわれが先に見てきた彼の「家族」論とはどう整合するのだろうか。 一見したところの不整合は別々の文脈の中で語られている用語を,読者であるわれわれが安易に対比するところから生ずる。「権威」を軸としてヒエラルキー構造をとっている家族の現実の姿をそのまま国家に拡大適用することの危険性を指摘する文脈と,家族についての考察の中から,その本来あるはずの姿,いわば理念を析出する文脈とがあって,われわれが先に見てきたのは後者における「家族」であった。注意深く,かつプルードンに忠実に読んでいけば,家族に関する概念上の混乱・矛盾は彼の側にあったのでなく,むしろ読者の側の責任であることが分かってこよう。 とは言え,専制的な社会体制のモデルとなる家族も,「正義」の学校として機能するはずの家族も,家族は家族なのである。プルードンの「理念=現実論」(イデオ=レアリスム)によれば,理念は現実に内在し,現実に回帰していくものであるから,今われわれは家族の「現実の姿」と「本来あるべき姿」との乗艦がなぜ生じたのかを見ていかねばならない。デュルケムの言いまわしを借りれば,「理想社会は現実社会の外にはない」42)のであり,現実が「正義」にも「悪」にも同時につながっている所以が解明されないならぱ,提示される「理想」は単なるユートピアにすぎない。 プルードンは,「無からは何も生まれない」という公理43)から,結婚・家族のメカニズムそれ自体の内に発展あるいは堕落の芽がある,と考える。たとえば,われわれは結婚・家族という集合的生活の中で「権威」が生まれてくるのを見るが,これは集合存在の内的秩序を維持発展させる上で必要なものであった。つまり,「権威」の確立は必然であった。そして,この「権威」はその体現者にとっても,またそれに服する者にとっても,徳性を向上させるものであったことは既にわれわれが見たとおりである。しかし,まさにこの「権威」が家父の専制化を生み,女性たちに従属の苦痛をもたらして,彼女らに自立の欲求を生み出させ,子どもたちに解放願望を植えつける。家族をまとまらせていた原理が,家族を解体させる原理となるのである44)。個の視点にとどまっていると,集合存在がその「集合的本能」によってつくりだす諸制度が,あるときには丸ごと「善」,あるときには丸ごと「悪」に見えてくる。そこで人は全面肯定と全面否定の間をゆれうごく。結婚や家族の現実のありようをひたすら賛美する者も,ここに一切の悪があると主張する者も,ともにこうした視点を囚われているのである。理念は現実に内在し,現実から析出されるものであるが、それを再び現実に回帰させようとするとき,すなわち「本来あるべき姿」を実現しようとするとき,それは「あるがまま」の現実を一挙に跳びこえることはできない。漸進的な発展・改革だけが可能な道なのである。プルードンの構想の分かりにくさと同時に,そのリアリティはまさしくここにある。 さて,プルードンは「正義」につながるはずの「結婚」・「家族」が墜落していくメカニズムをどのようにとらえているのであろうか。それは集合存在が個にもたらす「意識」の変化のせいだと言う。 ものの見方や考え方,感じ方はその人が生きている時代・環境に規定されている。したがって,何を善とし,何に価値をおき,何を志向するかは集合存在である社会のその時の状態によって決まる。プルードンは個と集団の関係を解明する大著『正義』の「第一研究」第一章でまずそう述べる45)。しかし,ここで留意しておくべきは,個は集の中にあって集の論理や感性をわがものとするが,同時に彼は主体としての自由も保持している,ということである。 プルードンは社会の発展の歴史を(原始)共産制から所有の体制への流れとしてとらえる。つまり,まず蜜蜂などの集団に見られるような「集団への個の従属」46)から集合存在の歩みは始まって,個の「無制限な自由」が絶対的な理想として要求される今日に至っている。極と極にあるこうした社会のなかで,人(個であれ集であれ)が持つようになる徳性も異なってくる。前者,すなわち集が個に上位する体制にあっては,「社会の名による人格の滅却」,「集の自由のための個の隷従」47)が「善」とされる。キリスト教の精神的起源もここにある。滅私奉公が第一の徳目とされた社会では,結婚・家族も当然それ自体の維持・存続を第一義的な目的とする。個は自分が生きている社会関係に規定されて,そうした発想に同調し,それを超えた考え方を奇異とし,私的利益の追求を悪とみなす。なるほど,この体制は専制である。しかし,自分をこえた存在に対して「わがこと」のような関心を示し,他者にたいする敬意が生まれてきたのもこの体制であった。集合生活がもたらす人と人との濃密な精神的交流もこの体制には期待できたのだが,その最大の致命的な欠陥は「自己の尊厳」が無にされた点にある。 生産性の向上は近代的な個人を誕生させた。すなわち,個が集に上位する,という考え方が次第に普遍化する。かけがえのない私というものが意識されるようになる。集合存在が解体するわけではないのに,それが見えないものになっていく。私的利益の追求がなにより大事なこととなる。結婚・家族においても堕落がはじまる。プルードンが「退廃」と呼んだのは,精神性の欠落のことである48)。快楽のやりとりだけからなる結婚は同棲と変わるところがない,と言う。関係の持続性・永続性というものがあって,はじめて人は感情のこまやかなやりとりができるようになるし,人生の機微についての深い洞察も可能となるのに,気にいらなくなったら何時でも解消できるような同棲は人を成長させない,と彼は考えている。快楽の交換や生きていく上での便宜性から結婚しても,それは「合法的な売春」だとしか言えない。愛は「物」と化す49〕。女性でも同じだ。女性は性の対象でしかない。そうでなければ厄介物だ。女性も個の意識を持つにいたり,平等を主張して,男と対等になるために女性であることの属性を否定したりするが,その結果はどうなるか。異質性が尊重されず,同質性の上に立って競争するのが美徳であるような社会では,性を共通にする者同士の間に(性交渉も含めて)密接な交流が行われやすい。つまりは,同性愛が主たる潮流となる50)。個の「無制限な自由」を求める「所有の体制」では,こうして「自己の尊厳」は大事にされる反面,「他者の尊厳」の蹂躙が横行する。 このように,共有制も所有制もそれぞれに「良きもの」をもっていながら,なぜそれを発現させないのか。それはわれわれが共産制で生きるにはあまりにも自立的であり,所有制で生きるにはあまりにも連帯的だからである51)。集は個によって形成され,個は集の中で生きている。集の論理とは,実は個を全面的に生かしながら,集としての固有の輝きを引き出させるものである、個性と共同性の調和と均衡こそが現実の結婚・家族から生まれてくるはずのものなのである。それが生まれてこず,逆に個性の破壊や連帯の破壊につながっているのは,まさしく当の現実の結婚・家族がそれを包みこむ社会の歪みを反映し,歪んだ意識に支配されているからである。そして,この歪みそのものも社会の発展の必然的な産物なのである。社会はその生産力の度合に応じて,共有制をとったり所有制をとったりする。集が第一か,個が第一かはそれぞれの体制の下で必然的に生じる集合的な価値意識であり,個の意識も当然それに同化する。それは,したがって,現実的な力を持ってわれわれの思考や願望を統制する。 しかしながら,われわれは同時に自由な主体である。であるからこそ,われわれは現実の社会を変革する力をもっており,単に社会の変動に身をまかせて時代の流れに漂うような存在ではない,と言える。プルードンの社会学が「革命の社会学」とされるのは,この点にある。リアルに社会をとらえながら,論理を再び現実に回帰させていこうとするとき,それは必然的に「革命的」な性格を帯びざるをえない52)。 プルードンの家族論は,彼の社会学(集合理論)にもとづき,それが異質なるものの対立と均衛の場としてとらえられねばならないことを明らかにした。そういうものであるからこそ,「家族」は「正義」の学校たりうるのである。プルードンが当時も今もフェミニストの憤慨をさそわずにはおかない性差別的言辞を多用しているのも,集団を構成する者同士のそうした異質性と,その堅持を強調するあまりという要素も持っているように思われる。
注 1)La pornocratie, ou les femmes dans les temps modernes, pp.396-397.(以下,Pornocratieと略する。) |