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『貧困の哲学』 (リヴィエール版)t.1, pp. 322-324 下記の原文のうち,末尾の下線部のみをマルクスは引用し,それによってプルードンを「ストライキ反対論者」にしたてている。 |
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1844年,リーヴ・ド・ジエ[ロワール地方の炭坑]騒動のとき,アンセルム・プトタン氏が『独立評論』誌に発表した二つの文章は,ロワール炭田の無政府的な経営について述べ,主張はきわめて率直で筋が通っている。氏は,炭坑の統合と経営の集中を唱えるのである。氏が公衆に知らせようとした諸事実は,権力も知らないはずがない。権力は炭坑の統合やこの業界の再編を不安に思っただろうか。全然,そんなことはない。権力は自由競争の原理に従い,すべてレッセ・フェールで,ただ傍観するばかり。 このとき以来,炭坑の経営はアソシエされた。このことに消費者はある程度の不安を覚えたが,それはこのアソシアシオンに燃料価格つりあげの秘密計画を見て取ったからである。権力は,この件で不満の訴えが多数あっても,そこに競争を再導入して独占を阻止すべく介入するだろうか。権力にとってそれはできない話だ。法的に,同盟の権利はアソシアシオン[結社]の権利と同一である。競争がものの獲得の基礎であるのと同様,独占はわれわれの社会の基礎である。 騒乱などが起きなければ,権力はすべてを自由に放任し,傍観する。他にどういう態度がとれよう。合法的に成立した商業社会を禁止することができるのか。隣人どうしの潰し合いを阻止できるのか。彼らの費用削減の努力を妨げることができるのか。最高価格を定められるか。権力がこうしたことを一つでもやれば,既存の秩序は覆る。したがって,権力はいかなるイニシアチブも発揮しえない。 権力は独占と競争をともどもに守り保護すべく存在する。パテント,ライセンス,土地税,および所有にもとづくその他の拘束を保留するが,この制限を除けば,権力は社会の名で主張しうるいかなる権利ももたない。社会の権利は定められない。また,そういう権利があるとしたら,それは独占および競争の否定そのものとなろう。はたして権力は法が予想せず,定めもしないものを守ろうとするだろうか。法律家が認める諸権利に反するものを守ろうとするだろうか。 さてリーヴ・ド・ジエの事件で,炭坑の経営者に対しわれわれが社会の真の代表者と見なすべき炭坑夫は,独占者たちによる値上げに対抗しつつ,自らの賃金を守ろうとした。同盟に対し同盟で抗しようとした。ところが権力は炭坑夫を銃殺する。偏狭な政治風刺家たちはこれを見て,権力は残忍だとか,独占に身を売ったなどと言う。私はといえば,権威の側の行為についての,このような判断の仕方はあまり哲学的ではないと思う。また,そういう考え方は力のかぎり否定したい。殺す人数をもっと減らせばよかったのか,あるいはもっと沢山殺すべきだったのか。ここで注目すべきは死傷者の多い少ないではない。重要なのは労働者を抑えつけることである。 権威を批判している連中だって,銃剣の使用や射撃の正確さを除けば,同じようなことをやっただろう。つまり,労働者を抑えつけたろう。そうしないはずがない。連中は認めたがらないが,その理由は,競争が合法的なものだからだ。合資会社も合法的なもの,需要と供給も合法的なもの。そして,競争,合資会社,自由な交易からの直接的な結果はすべて合法的なものである。一方,労働者たちのストライキはすべて非合法である。そう言っているのは刑法典のみではない。経済のシステムもそう言い,既成の秩序の必然性もそう言う。労働が主人でないかぎり,労働は奴隷でなければならない。社会もそのおかげでのみ存続しうる。労働者がそれぞれ個人的に自分の人格と腕を自由に処分すること,それは許される。しかし,労働者たちが同盟を組んで,独占を脅かそうと企てれば,それは社会が許さない。 (第5エポック――治安,租税)
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