資料1
他所の映画環境――松山編
松山市(愛媛県)は人口50万人で鹿児島市(60万人)より小さいのに,鹿児島市にないものを持っている。それはアート系の映画館だ。
シネマルナティック(以後CLと略す)は座席数160。けっこう大きい。1994年に正式オープンして以来,毎年120本以上の作品を上映し続けている。
なぜこういうアート系の映画館が,松山のような「田舎」で,持続的・安定的に経営できているのか? 松山でCLの支配人,橋本達也さんにお会いし,直接お話をうかがった。
個人の努力とその限界
CLは橋本さんの「個人的映画館」と称される。じっさい,もぎりから映写,館内清掃までほとんど一人でやっている。しかも,それが年中休みなしなのだ。
橋本さんはCLの前身,シネリエンテで映写技師として働いていたころから,終映時以後,夜の映画館を「借りて」朝までフィルムマラソン形式での上映を重ねてきた(約70作品)。明け方,わずかな仮眠をとって,すぐに通常の仕事にもどった,という。
CLの前身の前身,フォーラム松山では,ロビーを映画ファンに開放し,映画評などを載せた情報誌を発行し,映画を語る夕べなどが開かれた。つまり,橋本さんは20年近く大忙しの状態のままなのである。
こうしてがんばっても映画館経営は苦しい。フォーラム松山もつぶれ,シネリエンテも閉館に追い込まれた。いまCLの経営も青息吐息。「映画ファン」の力強い支えがないからである。かつてのさまざまな企ても映画文化のサポーターをたくさんは育てなかった。
「私は大分の田井さんと違って,人を組織する力がありませんから」という。
鑑賞会員制度を作っても,会員はその場での楽しみや割引などの御利益を享受するのみで,他者の喜びに手を貸すようなことはしたがらない。う〜む,陰鬱なお言葉であった。
シネコンとの競合
CLのすぐ近くにシネコン(シネマサンシャイン,5スクリーン)があり,郊外にも同系列のシネコン(9スクリーン)がある。
CLにとって「問題」なのは,最近はシネコンでも単館系の映画を上映されること,そして夜9時以降のレイトショーが常態化していることである。いずれもCLの利点を損なわせる。
じっさい,この5月末,まちなかのシネコンで「迷子の警察音楽隊」(2007,イスラエル),郊外のシネコンで「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007,米)が上映されていた。
たしかに,「ふつう」の映画ファンにとっては,ときどきおしゃれな映画が観られたら,それで十分なのかもしれない。CLが提供する年間百本以上の作品は,いずれも佳作だとしても,人を引きつけず,地元のマスメディア(新聞・テレビ)が力強く宣伝してくれるわけでもない。
そういう作品が数多く上映されること,そのこと自体に文化的な意義がある,と考える人が地元マスメディアの側にいないようだ。
街の沈滞と道連れ
さらに重大な問題は,CLを含む繁華街そのものが沈滞していることである。まちなかのシネコンも1階部分は空き家でスカスカだし,近隣にはシャッターを下ろした店舗が並ぶ。
CLとシネコンは,L字型のアーケードの角に位置する。アーケード街は鹿児島の天文館よりも長く,広くて立派である。ところが,市電やバスの停留所はいずれもL字型のアーケードの両端にあるため,角のところにある映画館にいたるには,どちらの停留所からも5〜6百メートル歩かねばならない。
繁華街は駐輪禁止で,公営の駐輪場は夜の9時で閉門する。つまり,なるべく来るなというに等しい。
地元の国立大学(愛媛大)のキャンパスで,学生(3〜4年生)4,5名に尋ねてみると,彼らはまちなかの映画館にはほとんど行かないようだ。郊外のシネコンには千台収納の無料駐車場があるから,映画に行く場合はもっぱらそちらだとか。そして,CLには行ったことがないという。うち2名はCLの存在さえ知らない。
学生に教えられる形で,ようやく気づいた。
映画館があれば街に人が来る,と期待するのは甘い。
アート系の映画館があれば街の文化的な価値も高まる,と期待するのも甘い。
建物があればどうにかなる,と思うのは,この分野でもまちがいのようだ。映画文化を楽しもうとする人々の数を増やすこと,それがまず大事なところである。映画館で映画をみる楽しみを教え,また,それを深く楽しむ「力」を育てなければならない。
むむ〜,松山でとても大切なことを教えてもらったような気がする。
(鹿児島コミュニティシネマ通信・第4号=2008年6月号所収)
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