資料2
長崎の映画祭はまた一味違う
長崎の繁華街=浜町で開かれる映画祭も,今年[2008年]で5回目だそうだ(毎年9月中旬に開催)。この映画祭の特徴は,映画ファンが高じた企画集団「アートクェイク」を仲立ちにした商店街と映画館のコラボレート,という点である。つまり,みんなでおもしろく,みんなでハッピーになる企て。
この7月末,アートクェイクの代表者=安元哲男氏(60歳),そして浜んまちの映画館(長崎セントラル)の主=山崎泰蔵氏(73歳)と会って,お話をきくことができた。
まずは,長崎市の映画環境をざっと概観してから,お話の紹介に移る。
踏みとどまっている名画座
鹿児島の天文館と同様,かつては繁華街に数多く存在した映画館がつぎつぎと閉館した。8月末に長崎ステラ座が閉館すれば,映画会社の直営館は全滅し,残るは地元系の長崎セントラル劇場のみとなる。じつは,このセントラルも2007年1月に1階部分を閉じ,テナントとして貸し出す。2階にある1スクリーン(128席)のみの小劇場として生き残った。(1階の家賃収入も大きな支え)
長崎セントラルは,ほとんどヤケクソのように,マイナーな映画,いわゆる単館系の作品ばかりを週に3本ずつ上映している。
ある長崎市民のブログによれば,このセントラルの存在こそが,長崎の良質の文化の証なんだそうだ。たしかに,この映画館も「まちの品格」を高める重要な要素のひとつになっている。
長崎には駅ビル(その名も長崎アミュプラザ)に,8スクリーンのシネコン(ユナイテッドシネマ)がある。そして,まもなくJRで一駅先(浦上駅の近く)にもうひとつ,9スクリーンのシネコン(TOHOシネマズ)がオープンする。鹿児島と違って,長崎ではTOHOシネマズの方に観覧車がついている。
楽観的な見方をすれば,シネコンは映画人口の増加につながる。だから,シネコンは悪者ではない。ま,これはある人がお役所(長崎県)に提出した文書の一節だから,たんなる作文かもしれない。しかし,やはり「世間的」にはシネコン+商業施設=高い集客力,の図式が信じられている。
シネコンの問題は,やがてシネコン同士のつぶしあいを引き起こす点にあるのではない。山崎氏(長崎セントラル)がいうように,シネコンは(いくらできても)市民の文化の向上につながらない。その点が街の文化の質,街の品格にかかわる大問題なのだ。
だからこそ,と山崎氏はいう。「私のようなキチ××が必要なんです。高卒後,伊万里の映画館で働きはじめ,それから55年間,ずっと低所得のまま,ただ映画が好きの一心で過ごしてきた。映画館経営でパソコンが必要になったときには,早朝,新聞配達のアルバイトをして金を稼ぎ,やっとパソコンを買った。ワープロが打てるようになったら,自分で個人誌『映画三昧』をつくり,コピーして配った。映画あっての人生,と思いこんでいる。そういうキチ××が映画環境の下支えをしなければ,映画文化の将来は危うい。また,街の文化も危うく,街の繁栄そのものも危うい。映画による集客(街の活性化)を期待する人や商店街があってもいいが,その論理だけだと街は大型商業施設+シネコンに負け,同時に街の文化が薄っぺらなものに変わるのを避けられない。だから,私は70歳を越えても,ここで足を踏ん張っているんです」
映画祭=起爆剤
2004年,第一回の浜んまち映画祭は,もう一人の映画好き(山崎氏の言葉をかりればキチ××)である安元哲男氏の呼びかけから始まった。
安元氏は,いわゆる団塊世代に属し,単純にいえば「おもしろがり屋」だ。停年に近づき,関連会社でおとなしく勤め続ける選択肢もあったが,それよりは,と起業の途を選んだ。30年つとめた会社を辞める。収入は激減しても「おもしろい方がよい」と決めた。
2003年に,デザイナーの知人らとともに企画集団「アートクェイク」を立ち上げる。文化芸術のイベントをとおして,まちづくりに寄与する,と謳う。長崎がもっとおもしろい街になれば,同世代(シニア層)の市民を楽しませ,元気づけ,彼らの底力を掘り起こし,また日本や世界の各地に散った同郷者のUターンにもつながって,さらに豊かな文化のまちをつくることができる。この好循環のとりあえずの起爆剤として,安元氏は映画に着目した。
2004年は,ちょうどフランソワ・トリュフォー没後20周年にあたり,記念のイベントをやりたいものだ,と安元氏は思い,たまたま山崎氏も同じ気持ちだと知る。
そこで安元氏は商店街に働きかけた。映画祭は商店街活性化の発火点になる,ともちかけたのである。それに対する商店街の反応に安元氏は逆に驚いた。すなわち,映画祭を後援する条件として,@映画祭は今後もずっと続けること,A良質の映画を選定して並べること,が求められた。
商店街は,集客力につながる特長をもったイベントを求め,文化的な味付けで他との差別化をはかろうとした。映画館(長崎セントラル)は,地元になくてはならぬ存在であることをアピールし,集客力を高めて自己の存続を確かなものにしようとした。企画集団アートクェイクは,商店街と映画館のコラボレーションにより,まちの賑わいと文化芸術の定着が同時に得られることを期待した。
安元氏によれば,これまでのさまざまな文化芸術ジャンルの事業やイベントは,あまり熱のないお役所仕事か,もしくはボランタリーな素人仕事で,いずれも単発的,断続的であった。成果の継承・発展が十分ではなかった。そうした欠陥を克服し,長崎の文化芸術の振興とまちづくりに寄与しうるものとして発案されたのが,アートクェイクによる仲立ちという仕組みである。
トリュフォー映画祭が,そのアートクェイクの最初の取り組みとなる。
映画祭としての「成長」
第1回の映画祭は8作品を約3週間かけて上映した。観客数は1800人で,黒字。これは同じくトリュフォー作品を並べた福岡での映画祭よりも上位の成績であったという。(ちなみに,観客数はその後も2000人弱で一定し,黒字も続く)
第2回からは,期間が2週間,作品数6本で定着する。
第3回からは,実施形態が実行委員会形式に変わる。すなわち,アートクェイク+映画館+商店街の三者が企画段階で融合した。
その積極的な効果は,つぎのようなイベントの多様化として現れる。
●キネマコンサート(名作映画音楽を地元ミュージシャンが,映画館やアーケードで演奏する)
●キネマ寸劇(二つの地元劇団がパフォーマンス)
●ストリートシネマ(アーケードにスクリーンを張って「座頭市」など上映)
●キネマカクテルバー(館内で,プロのバーテンダーがつくる)
●映画祭グッズの製作販売(手ぬぐい,エコバッグ,ポストカード)
●映画館探検(映写室を含め,ふだん入れないところもすべてをみせる)
●映画祭ブックフェア(映画+本で世界をもっと拡げよう,と呼びかける)
●シティFMでの案内(2006年から Movies Junction という番組として定着。毎週金曜の夜放送。パーソナリティは安元氏)
一方で,やや否定的な効果もある。それは上映作品のラインナップが,だんだん雑多になっていることである。
第1回(2004)のテーマは「8本の恋の炎」で,トリュフォー作品が並び,体系性は当然確保された。
第2回(2005)は「フランスがいっぱい」。選定者=安元氏がフランス映画を並べた。
第3回(2006)は「一人より二人で観たい映画」というテーマで,「ひまわり」「山猫」「ジャック・ドゥミの少年期」「幸福」「眺めのいい部屋」「女は女である」
第4回(2007)は「わたしの大事なもの」というテーマで,「ニュー・シネマ・パラダイス」「道」「はなればなれに」「若者のすべて」「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」「5時から7時までのクレオ」
そして今年,第5回にはテーマがない。作品は「あの胸にもういちど」「ざくろの色」「ぼくの伯父さんの休暇」「フレンチ・カンカン」「誓いの休暇」「春のソナタ」
(あ,話は逸れますが,今年オープンした長崎市立図書館の貸出DVDコーナーには「春のソナタ」などエリック・ロメールの作品が並んでました)
方向性のズレ
安元氏は映画祭の「成功」をバネにして,まちづくり支援の方向に活動をシフトさせている。
月刊のフリーペーパー『ハマスカ』をこの6月に創刊した。「浜町・ストリート・カルチャー」を縮めたものである。商店街と大学などを結びつけ,新しい長崎文化の発信拠点をつくろうという意気込みである。
長崎大学の学生などを励まして,コミュニティビジネスの立ち上げを促す。カステラをネクタイの柄にした特産品も,その流れでできた。自らも企業組合「eタウン」を立ち上げ,ITがらみのコミュニティビジネスを展開中だ。
他方,山崎氏(長崎セントラル)はひたすら映画にこだわる。
映画祭も,映画ファンを育てたいという気持ちで関わるが,実はファンを育てる妙薬はないともいう。
しかし,シニア層には映画ファンが潜在しているから,それを掘り起こすべし,と諭された。
かつては鹿児島にも枕崎にも国分にも鹿屋にも「キネ旬友の会」があったし,映画サークルがあった。そういう人々はいまでも映画を素材に語りたがってるはずだ。そういう人々に語り合いの場を提供すべきだ。個人宅でDVD上映会を開くのもよい。のべつ,そういう集まりをやっていれば,少なくとも年寄りの間では映画文化がふたたび花開く。それでいいんじゃないか。
と,話は鹿児島に飛び,鹿児島の映画環境についても関心があることを示された。なんでも鹿屋の映画館(東宝国際)で2年ほど働いたこともあるんだとか。
この山崎氏と,アートクェイクの安元氏は現在の立ち位置が微妙に異なっているけれども,お二人から鹿児島の未来について多くのことを教えていただいた。
(鹿児島コミュニティシネマ通信・第6号=2008年8月号所収)
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