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MR研究会・公開フォーラム(2001.10.20) 斉藤悦則 [録音テープが文字化されました。読んでみましたら,自分の話ながら自分で理解できなかったりする。これにはいささか驚きました。まさかこれほどわかりにくい話をしているとは! そこで,少し手を入れたのが以下の文章です。] |
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日頃マルクスに親しんでおられるみなさんにとって,プルードンのイメージはマルクスの『哲学の貧困』によって批判されたままの姿をしているではないかと思われますので、大本のプルードンの著作,『貧困の哲学』の内容を紹介する形で話を進めていきたいと考えます。 その前に,まずプルードンの方法論の成り立ちを簡単に説明しておきます。1846年の『貧困の哲学』に先だつ二つの著作が重要です。 プルードンは1840年に『所有とは何か』を書き、一躍「所有の破壊者」という悪名をとどろかせ評判になります。しかし,ここで注目してもらいたいのは、所有というものが広く神聖な権利として認められていた中で、所有を正当化する理屈で所有を否定する、所有を成立させた根拠で所有の不可能性を証明する,つまり敵の理論で敵をやっつけている、ということです。そして,もうひとつは集合力理論です。工場で働く労働者たちの集合力は個々人の力の総和をはるかに上回るにもかかわらず、賃金は個別に支払われ,残りは収奪されるというものです。分業とか協業の持つ生産力の高さに賃金が見合ってないという理屈です。この集合力理論はやがてプルードンの社会学理論ともいうべき「集合存在の理論」に変わっていきます。とくにこの点に注目していただきたい。 43年には『人類における秩序の創造』を著わすのですが、これは基本的にはフーリエの系列理論を受けとめて発展させたものです。系列理論とはものごとが系列的に連鎖しているありさまを見る理論です。また、複雑なものをとらえるときに単純なものから系列的に分析して組み立てていく理論です。また系列弁証法というものもあります。全く異質なものの関係を発見していくのが弁証法ですが、その発見の過程で系列的に筋道をたてていくと体系ができあがってくるというのが系列弁証法です。そして,できあがった体系は私たちの目に見えるものとはちょっとかけ離れているものであり,いわれてみればなるほどと思わずひざを打つものであり、それによって世界が明確になるというものです。この集合力理論と系列弁証法とが『貧困の哲学』における武器になります。
『経済的諸矛盾の体系』上巻 『貧困の哲学』の本当のタイトルは『経済学的諸矛盾の体系』といいます。しかし,描かれているのは「矛盾」というよりもむしろ「アンチノミー」です。アンチノミーとは対立し合うものの一方が正しくて他方が間違いであるというのではなく、両方とも正しく,それぞれに存在根拠があるというものです。『所有とは何か』においてはまだテーゼとアンチテーゼの後にジンテーゼがあり,そこで対立が解消されるといったヘーゲル的な考え方を持っていたのですが、それがうまくいかず、対立し合うものは並存し系列的に連鎖するという考え方に変わります。 『貧困の哲学』の冒頭「プロローグ」では「神の仮設」というものが語られます。個人を超越した力が社会に働いており、それは法則性というものですが、その法則性をつかまえたいとプルードンは考えた。しかし法則性をまず前提とするよりも、人々に分かりやすいように神というものをとりあえず持ち出してきたのです。社会は個人の集合体でありながら、個人を超越する独自な性格をもつ。個人が属するものでありながら個人とはぜんぜん別のものとして機能するということを言おうとしたのです。 「第一章 経済科学について」では、社会の問題をあつかうとき既存の政治経済学も社会主義もともに無効だとされます。一方は現状を肯定し,他方は空論を語る、一方はエゴイズムを賞賛し,他方は共同体を賛美するばかりで,双方ともぜんぜんお話にならないと言います。 ものごとのうちには対立する二つの項があり、この対立を解消するようなヘーゲル的な総合はないと考えます。そして変化するものとずっと変わらないものの両方を把握する必要がある。現存するものにはそれなりの根拠があり、しかも、それを存在させている根拠そのものによって障害が生じている、存在させている根拠が存在を危うくする、善かれと思ってやったことが悪を生むといったようなことです。生まれた弊害を克服しようとする営みは当然ありますから、それが変革へとつながる。変化というものは、対立するものがありそれを乗り越えるときに起こることです。例えば所有がありますが、所有とは何かと考えるとまず良いものと考えられます。なぜならば存在するからにはそれなりの根拠があったからです。それは労働意欲を高め、生産力を向上させるということです。しかし所有によって貧困が生まれる。貧困は経済のメカニズムの本性に由来するので、そこのところを腑分けしたい。したがって,「このままで良いのだ」と現状を肯定する経済学は認められない。一方、社会主義は意義申し立てをするばっかりで、それはそれで意味があるとしても、「では何だ」というと何も答えられない。そこで素材は政治経済学から与えられているので、それをいただき、そこに隠された誤りを見つけ、社会の法則を明らかにし、そして秩序のポジティブな概念を与えていくのだと訴えていきます。 「第二章 価値について」は、第三章から始まる系列的な経済分析の大前提をおさえます。経済学の基礎たる価値についての考察です。マルクスはこの部分についてボロクソに批判しています。とはいうもののリカードの考えを使ってプルードンの弱いところを叩くというものなのですが。 価値には使用価値と交換価値の二つがあって、対立しあっている。使用価値の生産が倍増すれば,その交換価値は半減する。がんばって作ってもがんばった分だけ価値が下がるという図柄で、同じもののなかで価値が対立し合う謎を考えようとする。この対立は生産物を生産者の視点で見るか、消費者の視点で見るかによるものです。そして個々の視点ではなく全体の視点から見ると生産者と消費者はイコールですから、集合的人間,すなわち社会が豊かになるとは単純に生産物の量が増えることではありません。消費者にとっての豊かさの基準は,そこにどれくらい多様性があるか、欲しいものを的確に得ることができるか,なのです。価値の多様性とそのプロポーション(比例性)こそが「正義」なのだというのです。豊かさを計算できる社会会計学のようなものを作ってデータを入れれば比率が出てくる、その比例性を発見するというのがポイントとなっているのです。これをプルードンは価値の構成とよびます。 次に「集合的人間」の経済的営みのありさまが検討されていくのですが、善(自らの福祉)つまり豊かさを目指す営みがなぜ悪に転化していくのか、富を増産していく仕掛けが貧困を生む、素晴らしい成果と悲惨な成果が同時並行的に現れてくるというのがここからの話です。 「第三章 分業」は冨を増産する最初の仕掛けである分業についての分析です。以下,機械制から人口にいたる十のカテゴリーの系列的なつながりが順次説明されてゆきます。分業は生産性をぐんっと向上させる決め手ですから,話は分業から始まります。ところが分業は労働を細分化し、単純化し、人間の精神を堕落させ、物は豊かになっていくけれども精神は荒廃する。技術が進歩すればするほど、職人技が退歩していく。分業の良いところだけを残して悪いところを排除するというのは不可能なのです。マルクスはここでわざと誤解しているのですが、何しろそういうことは不可能であるとプルードンは言っています。二つの側面はともに分業の本質的な属性ですからアンチノミーは解消不能なのです。良いことをやろうとして悪いことになるということはこれと関わります。 「第四章 機械」は分業の弊害を別の次元で,あるいはより高次の次元で克服しようとする話です。機械の導入は労働者を単純反復作業の苦痛から解放しつつ、同時に生産性をさらに向上させます。つまり分業を高次化させれば機械制が登場する。機械は分業のアンチテーゼということになるのですが、ところが機械制は同時に労働者を不要にします。そして機械という生産手段を所有する者が労働者の上に立つといったヒエラルキーが成立してしまう。労働者の機械への隷従が進みます。 ではということで機械を破壊してしまおうと思ってもそれは不可能であり、機械制をなくせばいいというものではない。生産性を向上させる機械制は良いものであり、同時に悪いものなのです。 「第五章 競争」では,機械による奴隷状態を克服するものとして競争が現れます。競争は自由の代名詞であり,冨の増大に貢献します。働く者の自由を獲得するために競争が出てくる。もちろん自由にも弊害があり、やる気のある者に自由をもたらすという仕掛けになっていますが、競争は敗北者を生む。労働者からパンを奪った上で、それを節約と呼び、改善と呼ぶ。しかし、競争がこの恐ろしい性格を失えば、それは同時に競争のすばらしい成果の喪失につながる。 社会主義は競争に反対し,それなりに理があるが、しかし競争を規制するアイデアはいただけないとプルードンはいいます。また最高価格法などのように物の値段を全部決めてしまうのは、自発性ややる気を失わせてしまうものであり、愚かなことです。社会主義者による改革は、せいぜい国家による独占化、共同体による専制に帰着し、悲惨なものとなります。 「第六章 独占」は競争の対立物です。競争の結果として独占が出てくる。競争は敗北者を生んでそれを始末します。独占は勝利をおさめた自由の表現ですから,合法則的なものであり、必然的なものです。独占によって人間は個としての自己の存在を確認します。アイデンティティの証みたいなもので,それはそれで意味がある。しかし、独占による価格は恣意的なものであり、労働者は自らの生産物を買い戻すことができなくなり、生産と消費のバランスが崩れます。富の総量が増えても労働者は貧困になる。また、個として自立した独占者は社会に敵対するようになる。 「第7章 国家,租税」ですが,これは独占に対する社会のリアクションです。すなわち,租税は偏って独占された富を吸い上げ,道路・病院などの形で貧者に環流させる仕組みであり、それによって富の公正をはかるものであり、そういった意味では必要なものです。独占の悪弊を克服するために現れてくる。ところが公正をはかろうとして一定の比率が決められるのですが、例えば10%と税率を決めてしまうと、一万稼ぐ人の千と百稼ぐ人の十はその重みがまったく違い、貧しい者にとっては打撃が大きくなります。公正(比例性)を実現しようとする仕掛け自体が公正を破壊することになります。 租税の徴収と還元を司る国家の存在は、それなりの必然はあるのですが、自立したとたん労働者に敵対したものとして現れます。プロレタリアートを守るためにできた警察(ポリス)も、仕掛け自体が丸ごとプロレタリアートに敵対するようになります。 「第8章 矛盾の法則の下で神の責任と人間の責任」は,先にプロローグで仮設された神についてさらに深く考えようというものです。社会に生まれてくる様々な悪弊は人間の責任なのか、人間の責任だとすると人間を教育して善い方へ導けば社会は良くなるのか。人間を善導,教化することの空しさがここで論じられています。 フォイエルバッハは個別的自我に集合的自我を対置し、これが神の正体だといいますが、そう見抜いたからといって社会が変わるわけでもない。人類を神とみなすことは現状を肯定し、共同体に身を任せよということになります。そうではなくて神と呼ばれている集合体は私たち自身でありながら私たちに敵対するということです。神はいないという無神論の立場に立つのではなく、反神論の立場に立つのです。宿命とされるもののなかから人類(集合存在)の法則を発見したい。以上が『貧困の哲学』の上巻です。
『経済的諸矛盾の体系』下巻 下巻は「第9章 貿易」から始まります。社会はプロレタリアートに対する償いを租税という形で何とかバランスを取り戻そうとしましたが、これも貧困をさらに激化させるということでうまくいかない。バランスの保証が国内で得られないなら国外に求めようとするのは当然のなり行きです。生産性の向上は販路の拡張を求め、自由な交易(競争の原理の国際版)は富を増大させます。こうして物を安く買うことなどができるようになり、人々の暮らしはよくなります。 ところが安価な生産物に輸入は国内の多くの産業に打撃を与えることになります。自由貿易は資本の封建領主たちの神聖同盟であり、それは小さな産業をつぶし、プロレタリアートをますます従属させることになります。ここで結論めいたことが言われるのですが、大事なことは自由か保護かではなく、両者のバランスである、ということです。新規な解決策はないのであり、解決のための素材はすべて現実のうちに存在するのです。 「第十章 信用」に続きます。貿易は欠落したバランスの保証を,つまり販路を国外に求めたのですが、その望みはなかなかかなわない。そこでまた国内に求める。それが信用です。信用は国内経済の活性化を目指すものです。それまでは金銀だけが貨幣として流通していたのですが、信用によってすべての労働、すべての価値が貨幣と同じ地位を得,動きのとれなかった価値も流通しだす。そして労働を活性化し、社会の富を増大し、個人の福祉を向上させる。しかし信用はその本質そのものによって必ず堕落します。つまり自分が提供するもの以上のものを得ようとするのが自然の性向なので、うまく立ち回ろうとする投機的な精神を生むことになります。そうするとうまく立ち回れなかった多数者は損をすることになる。 「第十一章 所有」で,プルードンはかつての自分の所有論を反省します。つまり、所有についてかつて考えたことがあったが、どうも考えが浅く、矛盾を示しただけだった。アンチノミーの系列的連鎖でとらえる方法論が必要だった,と反省が述べられています。そして,ここでは所有は信用の弊害克服として現れます。信用は投機的な精神を生み,生産者は労働する意欲を失います。そして具体的な物とのかかわりを失い、土地・自然から離れ、空中に浮遊し、株などのフィクティクな価値ばかりが増殖していきます。そこで人間を実体的な世界に戻すもの、それが所有なのだということになる。所有によって人と土地が結びつき、家族生活(確かな手応えのある生き方)が安定する。独占の段階では保証は一時的なものだったので、所有は独占を高次化するものとも言える。 しかし、所有は堕落する。独占の高次化である所有は独占の弊害をも一層激化させます。所有とは,ものを使用し濫用する権利なのですが、それは勝手なことをする専制であり、反社会的なものです。したがって所有は人と人とを分離・敵対させることになります。 この章の最後に「所有による神の仮設の証明」というものがあるのですが、そこでは宿命(私たちの手から離れた法則的な流れ)と進歩(私たちが作り出す主体的な営み)が存在の二様のあり方だとみなされ,その対立を神と人間の対立と見立てても良いのではないかと言っています。 「第十二章 共有」です。「共有」(コミュノテ)というより、共産主義と言った方が分かりやすいかも知れません。所有の否定、それが共産主義です。共有は国家の高次化であり、共有は所有が失敗したところから立ち上がるので、その限りではそれなりの存在意義があります。共産主義を根拠付けているものが次に語られます。所有とはプロパティ、プロパーなものです。共有=コモンは共通なものです。プロパーな,その人だけのものとコモン=共通なものがあり、個性と共同性の両者がともに大事なものであるように、プロパーなものもコモンなものも両方とも大事なのです。したがって人は酔っぱらいのように(これはプルードンの表現ですが)、所有と共有の二極の間を揺れながら歩くのです。「揺れて歩く」というのは大切な考え方です。バランスと言ったときにこれまでの人たちは静止的なバランスを考えてきたのですが、そうではなく歩行運動のようなものだというのです。歩行運動は本来バランスを崩すものであり、その崩れるところに進歩があるのです。 そして共産主義のモットーは「友愛」ですが、「友愛」は前提であると同時に最終目的とされるのは矛盾です。さらに共産主義は家族を原型にするのだけども、家族という形態を壊すものです。人間は家族の中で自分らしさを発見し、育っていくのですが、共産主義は自由な性関係や共同炊事などによって家族関係を解体します。その中ではしみじみとした家族関係を作り出すことができません。また共産主義は分配・組織の法則などの原理なしではありえないが、そうした原理によって滅びるともいいます。そして共産主義は,結局は、労働を嫌悪しており、生活も画一的なので退屈であり、思考も停止し、自我の死であり、虚無の肯定であると悪口を言っています。そして共産主義は思考や理性と無関係であり、論理や弁証法を恐れており、学ぶことを知らない、ひたすら信じるばかりのものである。そんなものは科学だとは言えず、自分は科学的な社会主義を展開すると言っています。 「第十三章 人口」についてですが、人口とはまさに人の口(消費力)であると同時に腕(生産力)です。だから人口を増やさずに富を増大させるというのは、腕を増やして口を減らすのと同じであり不条理です。家族は社会活動の中核だし、所有の本当の目的だし、秩序の構成要素だし、労働者の働きがいそのものです。その家族が人を産み、富を産むのです。しかし、マルサスなどの通常の政治経済学はそのようなことを言わないで、人はどんどん増殖するのが問題だといった言い方をする。 共有までのすべての営み、カテゴリーは、すべて貧困を克服するための営みなのに、それと同じ原理が貧困の原因になっている。マルサスのような通常の政治経済学は現存する矛盾の存在を確認・肯定するだけで終わってしまっている。それに対してわれわれは経済カテゴリーの連鎖や集合存在のメカニズムを把握して、その動的なバランスを追求するのだと言います。先行する諸カテゴリーは富を増産させ貧困を克服するはずのものなので、これをつなげていけば生産力は等比級数的に発展するとも言えるわけです。マルサスはそんなに伸びないと言っているが、生産性はぐんぐん伸びるのだと言うのです。つまり,人口の伸びに負けない。この段階まで来て、出発点に戻るのですが、個々の段階では均衡をとることはできませんでした。残るは全体でバランスをとること,全体的な解決です。 人口,集合的人間の均衡原理とは何か。人口が増大すると富も増大するということを言いたいのではなく、これまでのカテゴリーを積み重ねていくと、人間は宿命から自由へ、本能から理性へ、物質から精神へと向かっていく。系列的な発展は富を増やすだけではなく人間の精神のあり方に大きな変化を起こさせる。労働が芸術に接近し、男女の愛も高次化し、生殖の営みに分別が生じ,やみくもに子供をどんどん産むようなこともなくなる、文明が進めば少子化が進むということです。そして文明社会では労働時間が短縮されつつ生産力は向上する。豊かさと徳性が向上し、政治経済学が冷たく語るようにではなく、系列的発展の後には労働者も文化的能力も高まり、全体の文化が豊かになる。豊かさと美徳がバランスするのです。 「第十四章 要約と結論」に入ります。アンチノミー,これこそが生命と進歩の法則でした。対立する二つの力の一方が抑圧されると運動にはならず、共産主義のように組織に退行していくことは無に至ります。逆に、個人のイニシアティブが反対物を持たないと、集合組織は腐敗し、エゴイズムが支配し、ヒエラルキーが成立し、カーストが生れ不正と貧困の体制の下に入る。だからお互いに対立物を持たないといけない。アンチノミーがなければ運動がなく、系列がなければ運動は不毛で無方向的になる。目的も理念もない対立が地上にあふれる。ならば、あらゆる矛盾・対立のバランスをどこに求めるべきか。それは生産でも消費でもなく、それらが出会う場、中間の場、交換である。均衡の要は交換の法則、相互主義の理論である。自分のことを大事にしながら相手のことも大事にする相互主義によって、分業は科学の道具となり、機械への人の従属がなくなり、競争は社会に利をもたらし、独占は万人の安泰を保証し、資本と国家は労働に従い、諸国民は貿易で連帯し、所有は個人のイニシアティブを励まし、公教育は市民の平等を確かなものにする。社会が豊かで美しくなれば、人間の意識も向上し、世代間の均衡・調和も生まれる。社会は安定と変化をともに享受する。 こうしたことを述べるプルードンの姿は、みなさんが知っているマルクスにボロクソに言われた彼の姿とはずいぶん違うのではないかと思います。
ストライキを否定したか? 次にプルードンにつきまとうダーティー・イメージ、一つは彼が労働者のストライキを否定しているというもの、もう一つはアンチ・フェミニズムというイメージに関してお話させていただきます。 プルードンは『貧困の哲学』の中でこのように書いています。 「労働者たちのストライキはすべて非合法である。そう言っているのは刑法典のみではない。経済のシステムもそう言い、既成の秩序の必然性もそう言う。……労働者がそれぞれ個人的に自分の人格と腕を自由に処分すること、それは許される。しかし、労働者たちが同盟を組んで、独占を脅かそうと企てれば、それは社会が許容しえないことである」 マルクスはこの部分を引用して,プルードンはストライキを非合法と見ていると批判しているのです。しかし,この引用に先立つ部分から通して読めばそういう解釈は成り立ちません。1844年にロワール炭田で争議があり、プルードンはそれについて書いているのです。ちょっと長くなりますが読んでみましょう。 「このとき以来、炭坑の経営はアソシエされた。このことに消費者はある程度の不安を覚えたが、それはこのアソシアシオンに燃料価格つりあげの秘密計画を見て取ったからである。権力は、この件で不満の訴えが多数あっても、そこの競争を再導入して独占を阻止すべく介入するだろうか。法的に、同盟の権利はアソシアシオン[結社]の権利と同一である。競争がものの獲得の基礎であるのと同様、独占はわれわれの社会の基礎である。 ところが労働者たちのストライキは非合法なものとされる、とプルードンは続けているのです。権力の行いに対してセンチメンタルに反応してもしょうがない。もっと重要なことは,労働者たちは同盟自体を拒否されていることなのだというのです。労働者の隷従を求める「社会」の声をプルードンは描写しました。マルクスはその部分だけを抜き出して、プルードンは労働者に敵対していると批判するのです。
アンチ・フェミニズムの立場 次にフェミニズムに関してですが、確かにプルードンは「女は男に比べて、体力・知性・徳性がそれぞれ2:3だから、合わせると8:27の割合で劣っている」(『教会の正義,革命の正義』)と書いており、当時でもフェミニストたちをたいへん憤らせました。プルードン批判の本が出ます。それに対してプルードンは反論しようとしたのですが,彼が準備した『ポルノクラシー』という著作は彼が生きている間には出ませんでした。 プルードンのアンチ・フェミニズムの真意は何だったのでしょう。これについて少し話をさせてください。 プルードンの言う「正義」とは、存在を構成する部分が互いに異質のまま対立し合い、対立しながら均衡することを言います。そして集合存在の基本は、対立し均衡する「対」であり、「対」の系統的連鎖が全体を形づくります。 先ほど言ったように、対立があるからこそ運動があり、輝きがあります。個の自由を言い立てて共同性を無視すれば、それは不毛な対立を生むだけです。共同性のために個を無視すれば、そこで得られる安定は単なる不活性で、やはり不毛です。そうではなくプルードンが志向するのは、個がその全き自由を保持しながら、なおバランスのよい共同性が実現する社会です。個と共同性の結びつきを、われわれは家族の中で学び取ります。 同質性、画一性に根ざした社会は,蜂や蟻の集団にも似た共有制です。そういうところでは微妙な差異の違いによって喧嘩することがよくあります。力量を等しくする者どうしでは、敬愛や献身は生まれがたく、友好よりも反目の方が育ちやすい。したがって、正義を実現するには、差異のある者どうしの「対」が必要なのです。家族はこの条件を充たすものです。家族のメンバーは性も年齢も、考え方・感じ方も異なっており、異なっているからこそいっそう親しみが増し、正義の感情が育つのです。それぞれが自由に個性を発揮しながら、他者への配慮が自然に生まれ、まとまりのある全体を形成する。 プルードンはいいます。「結婚は異質な二要素の結合である。二つの知性と二つの意志をもった一つの魂である。」こうしたあり方が人間に成長をもたらす。愛と愛が、自由と自由が交換される関係の中で、人は他者の人生をも「わがもの」として生きる。相手が醜くなったからとか衰えたからといって、相手をとりかえることなど、この関係から本来出てくるものではないのです。 愛ではなく快楽を絆とする関係では、相手は自分のための道具にすぎない。正義の観念は、人格と人格の持続的な交流から生まれてくる。そうではない結婚は「合法的な売春」としかいえない。 家族という枠組みは「徳性」の向上にも必要です。徳性の第一は「権威」です。プルードンは「権威」を否定するところもあるので、これをどのように捉えるか微妙なところもあるのですが、とにかく「権威」は必要だというのです。子は父親の権威を感得して、自分に上位するものの存在を知り、謙虚さを学ぶ。父親は権威の体現者として自分が現れるとき「義務」の観念を感じ取る。同時に自己の尊厳と責任を自覚する。生命の存続を確信し、個を越えてなお個にとって痛切な関心事があることを痛感するのです。エゴイズムを越えて自分たちにつながりがあることを家族の中で学ぶのです。 しかし、家族は同時にヒエラルキー的構図の雛形となり、家父の専制化を生み、女性たちに従属の苦痛をもたらす。それが女性たちに自立の欲求を抱かせ、子供たちに解放の願望を植え付けることになります。そのように家族をまとまらせる原理が、そのまま家族を解体させる原理となります。 そこでプルードンが暗示する解決の方向は次のようなものです。個の尊厳を大事にするか(所有)、集団の連帯を大事にするか(共有)、社会の観念(集合的意識)はその間で揺れ、家族のあり方はそれを反映しています。個を重要なものとする時代の社会ではそういう個の意識がはびこり、集団を大事にする社会ではそれを大事にする個が存在するのです。われわれは共有制の下で生きるにはあまりにも自立的であり、所有制の下で生きるのはあまりにも連帯的です。とすれば、それぞれの社会のあり方と「対」になるあり方を家族の中で追求するのが、あるいは正しい姿勢なのではないか、ということになります。自由のためには権威がなければならないように、カウンター・バランスをとることが大切です。そうした発想でプルードンは女性のあり方についても考えていたのではないかと思います。 つまり,異質性を堅持することの大事さをプルードンは訴えたかったのです。みんな違うからみんな良い,と言いたかったのです。 |