『商経論叢』(鹿児島県立短大)第42号,1993年3月


プルードンにおける進歩の概念

斉藤悦則


 プルードンは1850年ごろ『進歩の哲学の諸原理』と題する著作を準備をしていた1)。プルードンは社会を単なる個人の総和でなく,一個独特の性格をもった集合存在とみなす。彼が準備していた著作は,そうした社会の独自の行動様式を研究するといった趣きのものであると思われるが,それは結局刊行されなかった。彼が進歩を論じるなかで明らかにしようとしたのは,そうした動くものとしての社会がどこへ向かっているのかという問題であった。まさに「動く」ことこそが彼のいう「進歩」なのであった。したがって,進歩それ自体は善とも悪ともいいがたいことになる。一方で,彼は社会のモラルを問う。あるいは,われわれにモラルを説く2)

 矛盾の弁証法にみられるきわめて相対主義的な態度と,彼の道徳主義的な態度とは,はたしてどのように結びつくのであろうか。本稿でわれわれが検討するのは,こうしたプルードンの独特の進歩概念についてである。

 ここでは,進歩について彼が発表した二つの著作を中心に考察をすすめていきたい。すなわち,1853年の『進歩の哲学』と,そしてプルードン思想の百科全書ともいうべき1858年の大著『正義論教会の正義と革命の正義』(とりわけその第9研究「進歩と退廃」)を中心にしながら,われわれはプルードンの独自の進歩観をさぐっていく。

※以下,『進歩の哲学』はPro,『正義論』はJus.(第3巻は。)と略記し,その後につづく数字はページをあらわす。使用したのはリヴィエール版のプルードン全集である。

 

1.進歩の俗論

 プルードンは通俗的な意味での進歩を批判する。すなわち,発明や発見,機械の改良や生活の利便性の向上,教育の普及などに進歩を見る発想の浅薄さを批判する。いわゆる物の豊かさや精神的享楽の拡大をよろこぶ一般の態度は理解できるが,彼らが見ているのは単なる表層のイメージにすぎない(Pro.49)。しかも,彼らのいわゆる進歩の現象にしても,ほんの少し注意深い検討をくわえただけで,すぐさま否定的な側面が浮かびあがってくる。

 たとえば,科学は進歩しているか。なるほど,知識は増大しているように見える。しかし,人間の知的力量,精神能力は向上しているのだろうか。観察される事実の数は増え,演繹された法則の数も増えているが,われわれの悟性の力,想像力,記憶力はそれに比例して増大しているだろうか。集積された事実は知識の倉庫にあふれ,科学はひたすら専門分化の度合いをつよめているが,そのことによってわれわれの知的能力が向上しているとは思われない(Jus. III.487)。むしろ逆である。こまかに分かれた専門科学はさらにこまごまとした事実を分析していこうとするが,ここでは大局が見失われ,直観する力や創造する力は減退している。いまでは既存のアイデアのいくつかを組み合せることが発明とよばれる。かつて文字や数字が発明され,印刷技術や代数学が発明されたころの知性の豊かさに比べると,これはむしろ寒々しい姿というべきである。「こういうものを進歩とよぶような考え方はどこかしら矛盾したものといえよう。なぜなら,さまざまの考えがあふれ,内省が進めば進むほど,直観的な自発性は減退しているからである」(Jus. III.488)。

 産業の面で進歩といわれているものについてはどうだろうか。進歩主義者は機関車の登場をその代表にあげる。しかし,機関車に代表される産業の近代化がわれわれにもたらしたものは何か。それは広範な生産者の大資本への屈伏である。すなわち,かつて独立していた生産者がいまや大量に賃金労働者となってしまったことである。なるほど,富は増大した。しかし,フーリエの言葉でいう「産業封建制」の確立は被搾取者の数の増大につながる(Jus. III.491)。しかも,富の増大はかならずしも全体の福祉の向上にむすびつくわけではない。自由な産業活動の賞揚があるところでは,かならず富は一部に偏っていく。これにブレーキをかける装置が存在しなければ,富の発展の一方にかならず貧困の増大がある。物の豊かさは幸福感の増大につながらず,逆に欠乏感,剥奪感,疎外感ばかりがふくれあがっていく。こうして,産業の発展と産業構造の変化とともに「貧困と犯罪の並行的で体系的な発展」(Pro.76)が見られることになる。

 こうしてプルードンは「進歩」についての素朴な信仰のようなものに水をあびせかける。鉄道網の整備など,多面的な技術革新の進行を背景に,誰も彼もが「進歩」を賛美する。しかし,そこには一種の購着があるのではないか。保守主義者ですら「進歩」を語る。その場合,彼らは革命に対する嫌悪から進歩を口にするにすぎない。世俗的な進歩観の最大の問題は,進歩の成果として「現状」を結局は肯定するところにある。じつは退歩,退廃にすぎないのかもしれないものを「進歩」と見なして,反省することもなくなっている。

 進歩主義の考え方によれば,歴史は野蛮から文明へ階段をのぼっていくように少しずつ上に向かって進んでいく。あるいは,幼年期から青年期,さらに壮年期へと成長していく。こうした単線的な発展図式は進歩の「原初的なイメージであり,パラダイムである」(Jus. III.495)。プルードンはいう。「白状すれば,私もかつてはこういう子どもじみた生理=政治的な発想にとらわれていた」(ibid.)。しかし,進歩がそのようなものであるならば,われわれはただ歴史の流れに身をまかせ,その波間にただよえばそれでよいことになる。これでは単なる現状肯定,あるいは,世の中はなるようにしかならないという点で宿命論への拝脆にすぎない。人間がますます豊かに,ますます自由になるということが,もともとは進歩という言葉に含意されていたはずではなかったか。それが逆にますます宿命にとらわれてしまう。ここに通俗的な進歩観の犯罪性がある。

 

2.「絶対」の否定としての進歩

 そもそも歴史の歩みを悪から善への発展と見ることが間違いである。悪い状態である過去から,善い状態である未来へと進むという考え方の背後には,善悪のアプリオリな設定がある。しかし,ひとつのことがらが善であるか悪であるか,正であるか不正であるかを判断する基準は何であるか。

 ここでプルードンはきわめて相対主義的な考えを披露する3)。すなわち,同じことがらでもあるところでは善で,別のところでは悪となる。たとえば,結婚のあり方についても,かつては一夫多妻は男性の力量の大きさをあらわし,むしろ賞賛すべきものとされた。ところが,現在では一夫一妻のみが正しいとされる(Jus. III. 351)。男女の結びつきについても,何かしら外的な権威による承認があるもののみを正しいとした時代もあれば,両性の合意にもとづくもののみが正しいとする時代もある。さらに,共産主義者によれば,自由な結合と解消が可能な同棲という形態のみが正しいことになる。オナニズムについても,悪いこととされたこともあれば,推奨されたりもする。(Jus. III.353)。

 奴隷制ですら,かつては万民の合意をえていた。奴隷自身もそれを理不尽なものとは考えなかった。自分が戦勝者の側だったら立場は逆転していたであろうと思うのみであった(Jus. III.356)。このように,制度それ自体,事物そのものの中には絶対的に正しいものも絶対的に悪いものもない。戦争についても,所有についても,投機についても,これを絶対的に悪と断ずることはできない。

 プルードンが進歩を語るとき,彼にとって何よりも重要なのはこの「絶対」なるものを否定することであった。絶対的な善,絶対的な正しさ,そして絶対的な権威,こうしたものの志向のはてに生まれれてくるのは宗教であり国家である。批判の側に立つはずの社会主義も,やはり絶対を志向して,千年王国を夢想するばかりだ。いわゆる「進歩」なるものの行きつく先が「絶対」や「完成」であるとすれば,それは人間の能動性や主体性の放棄につながり,そこでは「停滞」のなかでまどろむしかない。停滞をめざす進歩というのはいかにも非合理である。

 したがって,プルードンにおける進歩の哲学は絶対の拒否から始まる。彼はヘラクレイトスの言葉を借りて「万物は流転する」というテーゼから出発する。すなわち,すべては変化する,すべては運動のなかにあるという。「進歩とは運動の普遍性を肯定することである。したがって,あらゆる不動の形態や公式,永続性・不動性・完壁性などの唱導を否定することである」(Pro.49)。変化することこそが「現実的で,ポジティブで,実践的」なのだ。逆に「固定的,全体的,完全で変化しないものは虚偽,虚構にすぎない」(Pro.50)。

 こうした観点に立てば,「哲学の様相は一変する。精神界も自然界も逆転した姿であらわれる。論理学,形而上学,宗教,政治,経済,法律,モラル,芸術は徹底的に変革され,まったく新しい生理を獲得する。これまで真理と信じられていたものが虚偽となり,虚偽とされていたものが真理となる」(Pro.54)。絶対なるものを措定せず,どこまでもそれに反逆しようというのがここでのプルードンの覚悟であった。それは徹底的に相対主義の立場に立つことを意味する、「所有,それは盗みである」,「神,それは悪である」といった標語で有名になったプルードンは,そうした言説の倫理的な響きの分だけ説得力を弱めているとの自覚から,新しい立場をよりいっそう鮮明に打ち出す必要を感じていたのかもしれない。もちろん,彼自身はそれまでの著作とのあいだに思想的断絶があるとは考えていない。しかし,発想の転換の呼びかけは少なくとも世間にひろまっていたプルードンに対するイメージの一新につながるとの期待もあったと思われる。

 プルードンは言う。「運動は存在する。これが私の基本公理である」(Pro.56)。そして,運動というからにはかならず運動する方向がある。しかし,ここに起点と終点があると考えるのは間違っている。第一原因があって終局的な目的があるというのはフィクションにすぎない。存在するのは「関係」だけである。プルードンがフーリエから受け継ぎながら発展させた用語でいえば「系列」のみが存在する4)。すなわち,事物の系列的な連鎖が運動である。原因が結果を生み,それがまた原因となって新しい結果を生むという「系列」は,じつはきわめて多元的で,複雑に錯綜している。したがって,われわれに必要なのはそれを分節する術である。プルードンによれば,事物の運動はその内部のアンチノミーにもとづく。「おしつめていけば系列は本質的に対立しあう二つの項,必然的に相互矛盾した二項にいきつく。……それはアンチノミーと呼ばれる。これを分析しなければならない」(Pro.79)。進歩の本質をとらえる基本的な作業はアンチノミーの発見にあるというのである。

 このように「動く」とは系列的な移行であり,その「動くもの」は分節化できるとされた。しかし,存在を分割しただけでは運動する存在を把握したことにはならない。われわれがある存在を知覚するのは,それが「一つのもの」として直感されたからである。そこで,多数にして一なるものとしての存在をとらえるためには「集合の理論」が必要となる。

 

3.動くものとしての集団=社会

「存在するものはすべて集合体である。集合をなすものはかならず一なるものであり,一なるものであるがゆえに知覚され,またそのゆえに存在する。集合体を形成する諸要素や諸関係がますます多元的で多様になればなるほど……存在はますます現実性を獲得する」(Pro.63,64)。このようにプルードンは一なるものとしての存在の内実がますます複雑になり,陰影に富み,変化にみちていくことに進歩を見る。個体としての人間も「植物や水晶と同様にひとつの集合体であるが,それよりもはるかに高度の集合体である。その二次的な集合体である器官どうしが相互に適合し,その結びつきが全身にひろがっていればいるほど,人はますます生き生きとし,感受性も豊かになり,思考力もます」(Pro.64)。プルードンが「進歩,それは集合 groupe である」(Pro.80)と言ったのは,そうした意味あいにおいてであった。

 この論理は人間の集合体である社会についても同じである。プルードンは社会をひとつの流動体のようなものとしてとらえる。そして,社会の進歩はその構成要素である個々の人間が互いの関係の網をいっそう複雑化・多様化し,それぞれの個性をますます豊かにすると同時に,ますます自由に結合しあい,交流しあい,あるいは衝突しあい,しかもそうしたものとしてひとつの職場,地域,国民 nation をつくることにある(Pro.66)。

 この集合存在は「一個独特の sui generis の存在」(ibid.)である。すなわち,それは単なる個の総和ではない。それは「われわれの個性とは異質の,まったく独自の機能をもった存在」(Pro.67)である。周知のように,プルードンはこのアイデアをデュルケムに先だって展開しているが,彼の社会学思想は初期の経済研究のなかから芽生え,発展してきた。集合力理論がその基礎である。労働の分割(分業)と統合(協業)がもたらす成果は,単なる個人労働の総和をはるかに上回る。これと同じ論理が社会(=集合存在)のなかにもある。集合存在の独自のあり方についての理論を獲得しないかぎり,社会の動き方(集合的人間としての行動様式と思考様式)もリアルにつかまえることはできない。したがって,進歩の観念は空虚なままにとどまる。

 集合存在が集合力と同様に個の総和を上回る力をもっというのは,われわれにとってまだしも理解しやすい。難しいのは集合存在が独自の理性をもつという点であろう。プルードンが言ったのは集団の心性,メンタリティではなく,その理性である。彼はこれを集合理性と呼ぶ。ルソーは個別理性と一般理性を区別したが,プルードンは個の理性に集合理性を対置する。プルードンがルソーの言う一般理性を批判するのは,それが個の否定によって成り立つフィクティヴなものであり,実践的には国民感情といった個の偏見の総和のようなものを正当化し,全員一致を至高の善とするような欺瞞への道をひらくものだからである。個の絶対を否定したあげくに全体の絶対を肯定するにいたる。共産主義と親和性のあるこの理念は,結局のところ絶対主義にいきつき,リアリティを喪失する。

 これに対して,プルードンのいう集合理性は個の自由なあり方を前提とする。分業と協業による生産力の増大を見れば容易に類推可能なように,互いが異質であり,その異質さを前提に結びついている点にこそ集団の本来的な意義がある.集合理性も,多様で互いに異質な個の理性の自由なぶつかりあいから牛まれてくる(Jus. III. 250)。「私」はどこまでも「私」自身でありながら,「私たち」というものを観念する。ここに集合理性がある。ぶつかりあいの度合いが強いほど,すなわち電位差が大きいほど,火花も明るい。集合体の存在の豊かさもここに由来する。プルードンは人間の精神面の豊かさを例にとって,内なる葛藤が強ければ強いほど人間性が高まるのに似ていると言う(Jus.III, 256)。社会においても,対抗しあう勢力がそれぞれしっかりしているほど,安定も強まる。調和というのも対立があってこその調和である。単なる秩序の志向では絶対主義に陥るばかりだ。集合理性とは対立・矛盾・批判の精神の高次化である(Jus. III. 259)。「二人,あるいはそれ以上でもいいが,とにかく複数の人間がある問題について異なる意見を闘わせるとする。……すると,議論しなかった場合には彼らがそれぞれ個人的にいだいたであろう見解とはまったく異なる物の見方,共通見解があらわれる」(Jus. III. 261〕。こうした新しい「物の見方」が集合理性,あるいは公共理性をつくりだす。

 集合存在(=社会)の生命力はまさに集合力の発揮と集合理性の形成にもとづく。ところが,この「集合理性は潜在的なもの」(Jus. III. 251)で,なかなか見えてこない。社会そのものの属性であり,たしかに内在しているものではあるのに,先に述べた「系列」と同様,それを見抜き,それを顕在化させるにはある種の努力を必要とする。そして,その営みこそが進歩につながる。

 

4.正義の顕現としての進歩

 プルードンは集合存在に理性が可能態としてあると見たが,その根源には「社会的本能」が現実態としてそなわっているという5)。それは同類に対する内的な引力のようなものである6)。同感と言ってもいいし,側隠の情と言ってもいい。別名「ソシアビリテ」(社会形成能力)とも呼ばれるこの本能を意識化するところに,人間を動物と分かつポイントがある。

 意識化されたソシアビリテは良心と呼ばれ,この良心から「正義」があらわれる。正義とは「われわれの人格と同等の人格を他者のうちに認めることと定義することができる」7)。「人は知的になればなるほど,ますます自分自身の主人になる。ここに自己の尊厳があらわれる」(Jus. III. 341)。そして,「いかなるときにも自己の尊厳を大事にすると同時に,他者についても,自分が相手の立場だったらそうしてほしいと思うように,他者の尊厳も大事にすること」(Jus. III. 360),その義務が正義である。

 この正義が集合存在のエネルギーをつくりだす.すなわち,個がどこまでも個でありながら,他者と結びつく。ぶつかりあいながら結びつく。多様でありながら一つになる。創造的なものは同一性の原理からではなくアンチノミーの原理から生まれる(Jus. III. 405)。個々の自発性の全面的な開花が集合存在に新しい力と新しい秩序をもたらす。そこでプルードンは「進歩,その別名は自由である」と述べる(Pro.80)。

 しかし,この自由にもアンチノミーがある。ひとつには,自由それ自体が自由を否定する傾向をもつという意味において,もうひとつは,対極としての必然性を前提としなければ自由それ自体も空疎になるという意味においてである。この自由にアンチノミーが存在するからこそ,進歩,あるいは正義の顕現がひとりでにはもたらされないということの根拠がある。

 まず,自由を否定する自由について考えてみる。プルードンがここで言おうとしているのは,人間は善きものを求めるそのことによって悪にいたるという皮肉なメカニズムである。自発性の運動は理想の追求に向かう。理想は「正義と同じ原理から出発し,自由の動きとともに発展する」(Jus. III. 523)。こうして,自由が理想をつくりだすが,理想は何かしら具体的なものから善きもののイメージを得る。したがって,理想は確かな手ごたえのある現実の上でしかつくられない。もちろん,現実に立脚しない理想はユートピアに向かうのみである。ところが,現実は動いている。すると,たいていの場合,理想は現実の動きにおくれることになる。われわれが何かしらを善きものと思った次の瞬間に,この善きものはもはや善きものでなくなっている。「奇妙な話になるが……自由は本質的に保守的なのである」(Jus. III. 528)。「現実が前進するにつれて,理想はそれに応えられなくなる」(Jus. III. 529)。

 しかし,これは理想を捨てるべきだということではない。理想はわれわれをつき動かす力だからである(Jus. III. 531)。理想をもたなければ,人間は単なる獣になってしまう。「知性と理想をもった人間のみが真の徳性をそなえることができる」(Jus. III. 539)。人間が善きものを求めて悪へいたる,その罪は人間の本性にあるのではなく,人間の内にある正なるものと理想が分離してしまうところにある。人間が富や権力や官能を追求するのも,もとは自由を求め,善きものとしての理想を求めたからであるが,内在するモラル(良心)のチェックが入らないとそれらは犯罪と化す。「人間は悪を望んではいない。彼は至高のもの,美しいものを夢みる。自らの自由の全エネルギーでもって理想を追求する」。しかし,「その理想は彼の認識レベルに比例する」(Jus. III. 537)。エゴイズムも全体主義も理想追求の産物である。そして,エゴイズムの場合は他者の自由を否定し,全体主義の場合は自分の自由を否定する。そこに欠落しているのは集合存在の理論であり,動くものをとらえようとする覚悟であった。

 集合存在の理論は自由と必然のアンチノミーにもかかわる。すなわち,われわれが単なる素材的対象であれば,われわれは宿命に翻弄される受動的な存在にすぎない。しかし,人間は物質と生命と知性と情熱の複合である。そこには活動力があり,感受性があり,意志があり,記憶がある。こうしたものの合力が自然をのりこえる力を生み出す。「人間において,この合力は何か。それは自由である」(Jus. III. 409)。この力(=自由)はそれを構成するものの数とその多様性に比例する。つまり,個人においても社会(=集合的人間)においても,内部の構成要素のひとつひとつが豊かになり,多様化することこそが自由の拡大につながる。進歩はまさにそこにある。

 しかし,自由は必然性があるからこそ自由なのである。「自由と必然の関係は右と左の関係に似ている」(Jus. III. 427)。歴史にはたしかに必然(=法則)があるが,それは半面にすぎない。もうひとつの半面では自由が作動している。必然がなければ何も存在しないが,自由がなければ歴史の運動を説明することができない(Jus. III. 399)。自由とはたえざる「否non」の声である。「それは自分を支配しようとするあらゆる思想やあらゆる力に逆らう永遠の反論者である」(Jus. III. 424)。つまり,自由とは常に必然の中で眠りこけようとするものに対する不断の刺激なのである。自由とは「否定であると同時に肯定の力であり,破壊であると同時に生産」(ibid.)だと言える。

 自由のモチーフはただひとつ「自我の開花」(Jus. III. 426)。である。集合存在こそがその開花を十全にする。多様なものの集合によって存在は超自然的な力を獲得し,内的・外的な宿命を離脱して,そこで本当の自我の実存を確認できる。宿命に対抗して,自分が自分自身の主人になれる。

 集合性が増せば自由も増す。したがって,進歩は集合存在の理論の獲得と,その全面的な展開のなかにある。その原則は「最大限の矛盾」と「最大限の多様性」を保証することだとプルードンは言う(Jus. III. 270)。そして,そのはてに得られる「多様性のなかの統一」(Pro.125),これこそ彼が賞揚してやまない「正義」の具体的な姿なのであった。

 

  1. これについては拙稿「プルードンの未発表手編『経済学』について」鹿児島県立短期大学紀要』第43号,1992年12月,を参照されたい。
  2. モラリスト・プルードンに関する最近の論文としては次のものがある。Bernard VOYENNE,'P.-J. Proudhon, moraliste ou sociologue,', dans "Variations sociologique, en hommage a Pierre ANSART", (Textes reunis par France AUVGERT), L'Harmattan, Paris, 1992.
  3. 善悪の区別というテーマはとくに『正義論』の第8研究「良心と自由」第3章で展開される。
  4. 「系列」はプルードンの1843年の著作『人類における秩序の創造』の中心テーマであった。
  5. 社会的本能であるソシアビリテ(社交性とも訳されるが,社会を形成する能力である)については,1840年の著作「所有とは何か』で展開されている。(Proudhon、"Qu'est-ce que la propriete", Slatkin Reprint, p. 300 et suiv.,邦訳『プルードン。』、三一書房,245ページ以下)
  6. フーリエのいわゆる「情念引力」の概念が受けつがれている。
  7. Proudhon, "Qu'est-ce que la propriete", p.303.(邦訳.249ページ)

 


2001年10月25日に html 文書化

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