書評(経済学史学会年報・54巻2号・2013年1月)
中倉智徳『ガブリエル・タルド――贈与とアソシアシオンの体制へ』
洛北出版,2011年3月


 タルドは「忘れられた社会学者」である。日本だけでなく,フランス本国においても,近年では社会学史の概説書からタルドの紹介が落ちていることが多い。タルドの論敵であったデュルケムが学派をなし,その著がいまなお社会学の必読の古典として読まれているのと好対照である。
 ところが最近「タルド・ルネッサンス」と称される動きが見られる。わが国でもタルドの著作の翻訳があいつぎ,タルドに関する研究論文も増えた。この動きは世界的に,1969年,あのドゥルーズによるタルド再評価から始まる。
 タルドがネオ・モナドロジーとして展開したいわゆる「差違の哲学」が評価されたのである。デュルケムが個人にとって外在的な社会的事実を強調するのにたいして,タルドは諸個人から出発し,差違こそがすべての根源であるとする。社会の変革も個人個人の創造的な力を出発点とする。この考え方が68年以降の若いひとびとに思想的なインパクトを与えたのである。また,タルドの「模倣の法則」も,欲望を欲望する消費社会を分析する道具として再発見された。
 このように,わが国以外ではタルドの理論はおもしろい「道具箱」として用いられる傾向にある。ツールとしての使い勝手の良さが生命である。それを使えば現実の社会の,何がどのように見えてくるか,そこが利用者(研究者)の腕の見せどころなのである。タルドを「道具箱」と言い放ったフランスのマウリツィオ・ラッツァラートの著作『出来事のポリティクス』(邦訳,2008年)や,アメリカのロザリンド・ウィリアムズ著『夢の消費生活』(邦訳,1996年)などがわれわれに興味深い社会分析を示してくれるのは,そのおかげだといえる。
 一方,わが国のタルド研究者ははるかにまじめである。あくまでもタルドに寄りそい,タルドをどう正しく理解するかが大切なのだ。ここでとりあげる中倉智徳氏もその大道を往く。(ちなみに中倉氏はラッツァラート『出来事のポリティクス』の訳者でもあるから,余計にその落差が印象深い)。
 中倉氏の著作『ガブリエル・タルド』の最大の特長は,ほかの研究者が敬遠してきたタルドの主著『経済心理学』の紹介に大半を割いていることである。タルドをたんなる社会学者でなく「一人の社会思想家として理解したい」という中倉氏の姿勢も,これまでの社会学史研究にはあまり見られなかったすぐれた点だといえよう。じっさい,タルドは犯罪の研究から始めて,道徳,法律,政治,経済へも視野を拡げ,そのすべてを包摂した「一般社会学」の構築をめざした。
 本書は,まず第一章でそのことを勘所としておさえる。タルドの社会学全体に通底するのは独特の心理学である。すなわち,信念と欲望の心理的な量で社会的人間の営みを記述しようとする。そして,社会のダイナミズムを説明する概念として「模倣」と「発明」が提示され,その動的なプロセスは「反復」「対立」「適応」という三つの「社会法則」によって理解されるとする。
 なるほど,これらの概念装置が金太郎飴のようにタルドの著作あれこれに見られることはたしかだろう。しかし,「だから何だ?」という点にかんしての中倉氏の答えは,きわめて控え目である。タルドの社会学は「調和の統治術」を提供するものだといい,この穏やかで健康的な結論にタルドの真骨頂があるとする。そして,それは本書全体の結論にもつながっていく。
 本書の第二章から第九章,および終章までは,タルド最晩年の大著『経済心理学』の紹介に費やされる。この大著も,例の社会法則にしたがって「経済的反復」「経済的対立」「経済的適応」の三つで整序されているが,やはり一番重要なのは「心理学」によってこれまでの経済学をまるごと「裏返す」ことが企てられている点にある。「経済学を,客観的なものではなく主観的なものに基礎づけ」る企てが紹介される。タルドによれば,古典派経済学も歴史学派もマルクスの経済学も誤っている。限界効用学派も不十分である。価値,労働,貨幣,資本など,あらゆる領域にわたって経済学を「完全に改変」しなければならない,というのである。
 タルドが提供する概念装置のありがたみがまだ飲み込めないでいる人にとっては,こうした長々とした紹介の文章に触れると,タルドはたんなる怪しい誇大理論家に見えてしまうかもしれない。中倉氏が,タルドの思想の現代的意義をことさら言い立てるのを控えているのはまことに奥ゆかしいけれども,せめて「裏返し」の技の心地良さぐらいは読者に伝えてほしかった。
 また,『経済心理学』の結論は「アソシアシオンの体制」による普遍的な調和の実現だというのも,タルドの独自性をいささか薄めているように思われる。「アソシアシオン」が19世紀における「魔法の言葉」であることはもちろん中倉氏も承知しており,タルドの構想がそれなりに個性的なものであることを示そうとはする。しかし,タルドの思想的な営みの着地点をアソシアシオンに定めてしまう話の運び方は,タルドもやはり時代の子であったと言うにひとしい。つまり,ある意味でやや凡庸な結論にいたったとさえ言えそうだ。タルドを忘却から救い出す手がかりがあまり見えてこない。

2012年8月 斉藤悦則